言いかけた僕の横からお后様が乗り出してきて、小夜の手の平を見た。
『あらあら、大変。お医者様に見せないと…。申し訳ないんだけどアール王子、今日のところは一旦ハンガルに戻っていただけないかしら。今からこの子を医者に診せにいくわ』
『あ…はい。でもどうして凍傷に…。小夜様、何か冷たい物に触ったの?』
『え、あ…その』
しどろもどろになる小夜様を自分のほうに引き寄せて、お后様はにっこり微笑んで言った。
『この子ったら、最近よく雪の中で遊んでるから。こんなになるのも無理はないわね。…それじゃあ、王子』
母に肩を抱かれて去っていく小夜様を、僕はしばらくの間じっと見つめていた。
…何かが引っかかる。
小夜様の凍傷になってしまった手の平。
お后様の笑顔。
どこか怯えたような小夜様の顔。
具体的にどこが変だとは言えないけれど、胸の奥にしこりが残っていて、それが僕を落ち着かなくさせる。
廊下の向こうを歩く二人の姿が曲がり角に消えたとき、僕はたまらなくなってその後を追いかけることにした。
二人はすぐに見つかった。
僕はなぜか声をかけてはいけないような気がして、こっそりと後をつけた。
小夜様とお后様は地下に下りる階段の前まで来ると、なぜかそのまま下へ下りていく。
あれ?お医者様は地下にいるのかな…?
二人は階段下の扉の向こうへ消えていき、僕が物陰に身をひそめて少し経った頃に、お后様だけが扉から出てきた。
その姿が廊下の向こうに消えたのを確認して、僕はゆっくりと地下へ続く階段を下りていった。
扉は分厚い金属で作られていて、ノブを回して開くと、金属が軋む嫌に不気味な音が響いた。
扉を閉めたそこは薄暗く、唯一の窓も窓というよりは隙間という感じの、ガラスも枠もはめられていない雑なものだった。
しかしちゃんと明かり取りの役目は果たしているらしく、その窓からは外の光が射し込んで石造りの床を照らしていた。
地下空間は床も壁も石で作られており、触るとひんやりと冷たい。
地下の温度は地上よりもずいぶん低く、息を吐くと白い湯気が見えた。
ここに本当にお医者様がいるのかな…。
僕の前にはわずかな通路があって、それもすぐに右へ曲がっているようだった。
僕は寒さに震えながら前に進んだ。
曲がったその奥は明かりも届かないらしく、真の闇がぽっかりと口を開けている。
ごくりと唾を飲み込んで、僕は周囲を警戒しながら足を一歩一歩慎重に動かした。
少しすると目も暗闇に慣れ、通路の終わりも見えてきた。通路の先には壁があるだけだ。
あれ、行き止まり?と目を細めたときだった。
『…くしゅんっ』
その壁のすぐ側から誰かのくしゃみが聞こえた。
壁の前に立っていた僕は、即座に左に視線を向ける。
そのとき初めて、そこに小さな牢があることに気づいた。
三畳程度の空間に、黒い冷たそうな格子がはまっている。
僕は音を立てないように、その格子の前に立った。
中の様子が目に映った瞬間、僕の全身からざあっと血の気が引いた。
寒さのせいだけではない鳥肌が立つ。
息を整えることもせず、僕は方をひどく上下させて呼吸していた。
見間違いだったらよかったけれど、僕の瞳は正確に今の現状を映しとっていた。
――牢の中にいたのは、この城の王女である小夜様だった。
「その瞬間すべてが繋がったよ。なぜ小夜様は母の話になると悲しそうな顔をするのか。なぜ凍傷になった理由を言えなかったのか。…小夜様はあの人に虐待されていたんだね、ずっと」
アールは小夜の顔を見つめた。
小夜の瞳にわずかに翳りの色が浮かんだことに彼は気づいた。
「事実を知ったとき、僕の中に怒りが生まれた。何の罪もない小夜様をいたぶるあの人に対して。そして、苦しんでいる小夜様の様子に気づいてあげられなかった僕自身に対して。そして戦争が始まった頃、僕はあることを思いついたんだ。戦争という殺し合いのどさくさに紛れて、あの人を殺してしまおう」
小夜の頭に血だまりの中で動かない母の姿が鮮明に浮かんだ。母の胸には深々と一本の剣が突き立ててあった。
自分はその後どうしたのだろう。
アールが続ける。
「本当はその後小夜様を連れてハンガルに戻るつもりだったんだ。だけど邪魔が入ってね、会いにいけなくなった。でも小夜様安心して。僕はもうどこにも行かないよ」
にっこりと微笑むアールの優しい笑顔は、昔となんら変わっていない。
しかし小夜には見えた。その笑顔の下に隠された恐ろしいほどの冷酷さが。