目の前の人物を見る小夜の目が、突然大きく見開かれた。その瞳にはびっくりした彼の顔が映っている。

月の光の下においても、小夜の顔が一気に青ざめていくのが分かった。

どうして気づかなかったのだろう。

小夜は後悔と共にそう思う。

目の前の男の人をどうして紫音だと思ってしまったのか。昔の自分であったなら、この顔を一目見て気づいたはずだ。

私の心の中に深く根づいてしまったこの顔への恐怖心と憎悪が、私に決して彼を忘れさせなかったのに、なぜ今まで分からなかったのだろう。

この人は私を裏切った人。

信じて疑いもしなかった幼い私を、あっさりと地獄の底へ叩き落し、二度と救いの手を差し伸べてくれなかった残酷な人。

そして、幼い私にとって唯一光を与えてくれた大切な、何よりも大切な人だった。


「…アール…」


名前を口にした瞬間、彼の存在がはっきりと現実のものになったような気がした。

名を呼ぶべきではなかったと小夜は後悔した。

このまま目を固く閉じてこの部屋から逃げ出せば、すべてなかったことになったはずだ。

そうして今度こそ朱里に追いついて、しっかりとその背中に抱きつけば元に戻れる。

アールという名の心の闇には永遠に蓋をして――。


しかし今、その蓋は開いてしまっていた。

中からどろりとした黒い闇が漏れ出てくるのを、小夜は確かに感じた。

「小夜様?大丈夫?まだ横になっていたほうがいいよ。熱も完全には下がってないんだ」

闇の浸出はとどまることを知らない。小夜の心は黒に冒されていた。

「…どうして?どうして私の側にいるんですか…」

震える肩を腕で抱いて、小夜はアールの顔を見据えた。

「あなたはもう忘れたんですか、自分が一体何をしたのか…。第一あなたはあの戦争で命を落としたはずです。ハンガル王は確かにそう仰っていました」

小夜の言葉にアールは初め驚いたような表情をしたが、すぐに微笑んでみせた。

「父上はそんなことを言ったのか。だけどそれは嘘だよ。僕は国外追放されて二度とハンガルに戻れなくなったんだ。それからマーレンにもね。悲しかったよ、小夜様に会えないなんて、僕にとっては死と同等の罰だったから。死んだほうがましだと考えたときもあった。でも、神様はいるんだね。こうして苦しんでる僕の元に小夜様を連れてきてくれた。君の姿を見たときは夢かと思ったよ、すごく嬉しかった」

それを聞いて、小夜は愕然とした。

「よく…よく、そんなことが…」

唇がわなわなと震え出す。

「あんなことをしておいて、どうして私に会えるんですか!?あなたはあのとき私を裏切った。私のお母様を殺したのと同時に、私のあなたへの信頼もすべて壊したんですよ…!?」

思い出すのは、冷たくなっていく母の側で途方に暮れている小さな自分。

大好きなアールがどうしてこんな酷いことをするのか、全然分からなかった。

戦争が終わってからも数日間は、花畑があった中庭でアールを待ってみた。

もしかしたらあれはアールではなくて、いつもの優しいアールはそのうち花のプレゼントを持って、ここに来てくれるのではないだろうか。

何もない中庭で一人ぽつんと立っていると、ある日父がアールの死を告げにきた。

そのとき、幼い自分はようやく理解した。


私は裏切られたんだ。


小夜は自分がいつの間にか涙を流していることに気づいた。

心の闇が溢れ出るように、その滴はぽろぽろと目からこぼれて強く握りしめたこぶしに落ちていく。


「…どうして、お母様を殺したんですか…」


涙も拭かずに、小夜は月明かりに浮かぶアールの顔を見つめた。

ずっと尋ねたかったことだった。

母が死んでから今まで、胸に引っかかっていた疑問を、ようやく小夜は口にすることができた。

「…教えてください」

真摯な小夜の眼差しを受け止めて、アールはゆっくりと口を開いた。



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