朱里が歩き出した。

小夜は目をぎゅっとつぶって、不安で震えそうになる声をしぼって話し出した。

「朱里さん…私、自分を選んでくださいなんてワガママは言いません…。けど、だけど忘れないでほしいんです。私の…ことを」

朱里の足音が耳に響いている。
怖くて目は開けられない。

自分はなんて図々しいのだとは思う。

けれどこれが最後かもしれないと思うと、これまでの日々で言い残してきたことが山ほどあるのではないか、と考えてしまうのだ。

せめてこれだけは言っておきたい。


「最後のお願いです。ほんの少しでいいんです、一ヶ月…ううん、一年に一回だけでいい。私のこと…思い出してください…。忘れられるのはすごく怖いですから」


祈るような気持ちだった。

「うん」とさえ言ってもらえれば、自分は笑っていられると、心の底からそう思う。



返答は意外と近くから聞こえた。

「馬っ鹿じゃねえの」

目を開けて上を向くと、そこには朱里が立っていた。
彼は腰に手を当てて続ける。

「お前みたいな女、忘れたくても忘れらんねえよ。第一お前、自分があの本に負けるとでも思ってたのか?お前と本、天秤にかけること自体おかしいだろ」

朱里は座り込む小夜に手を差し伸べる。

「さあ。帰ろうぜ」

小夜は手を伸ばすが、朱里のあのときの言葉を思い出して手を引っ込めた。
そんな小夜の様子を見て朱里は困ったような表情になる。

「あのさ、俺お前に何かしたのか?ずっとお前に避けられてる気がするんだけど。言いたいことははっきり言ってくれよ」

そう言われて小夜はたまらず口を開いた。

「違うんです、朱里さんは全然悪くなくてっ…。私が朱里さんは嫌がってるのに手をつないでたから……もう嫌われちゃったのかとっ…」

真剣に言う小夜の顔を見て、朱里は「あー」と呟いた。

あのときの一言でこんなに小夜を悩ませてしまったのだと気づいたのだ。

「違うんだ、そうじゃない。俺は別にお前が手ぇつないでくるのが嫌なわけじゃなくて…、人前であれを見られんのが恥ずかしかっただけなんだ。お前のこと嫌いだなんて思ってない」

言ったあとで顔が上気するのが分かった。

小夜に見られないように顔をうつむけて、再び朱里は小夜に手を伸ばした。

「ほらっ」

小夜の小さな手を握って立ち上がらせる。
小夜はきょとんと、照れてそっぽを向いている朱里の顔を見つめた。

「何見てんだよ、照れるっつうの」

「朱里さん」

呼ばれて仕方なく小夜のほうを向く。
二人は真正面に向き合うこととなった。

少しの沈黙が流れた。


「…朱里さんにとっての宝物って何ですか?」

小夜がじっと朱里を見つめて尋ねる。

朱里は一瞬「はあ?」と目を丸くしたが、頬を掻いて小夜の体を自分のほうに引き寄せた。
小柄な小夜の体は、すっぽりと朱里の腕の中に収まった。


「…決まってんだろ。お前だよ」


朱里の低い声が心地よく小夜の中に響き渡る。

それを聞いて小夜の中の不安は一気に霧散した。目から涙の粒がこぼれる。

そんな小夜を朱里は大事そうにそっと抱きしめた。ふわっと、小夜の体からいつもの匂いが香った。

「何度も言わせんなよな」



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