谷に着いてから日が落ちるまでずっと、朱里と小夜は住人に話を聞いて回っていた。
集落の者は皆、消えた男のことをよく知っていた。
だが誰も彼もが、男の言う花の話は信じていないようだった。
あれはただのおとぎ話さ。
きっとあいつは何か見間違いをしたんだ。
誰にも自分の見たものを信じてもらえなかった男は結局、姿を消した。
どこで何をしているのか、知る者は誰もいない。
虚空に浮かぶ月から視線を戻すと、朱里はぐるりと周囲に首を巡らせた。
完全に日の沈んだ夜道を歩く者は、二人以外いないようだ。
集落に点々と建つ家屋の煙突からは、もう煙も出ていない。
皆夕餉も終えてしまったのだろう。
朱里は、隣でいまだ空を見上げたままの小夜に視線を留めた。
「今日はさすがに歩き通しで疲れたな。これ以上話聞けそうな人間もいないし、宿に戻るか」
「はいっ」
胸の前で小夜が小さく拳を握って答える。
その仕草に笑みを漏らす朱里の顔が、ふと翳りを帯びた。
この集落に到着して、噂の聞き込みをしていたときのことだ。
ある住人の男が言っていた。
“そういや、あんたらと同じようなこと訊いてきた奴らがいたなあ”
“同じようなこと?”
“ああ。幻の花を見たことがあるかってね。ちょうどあんたらと同じ、若い男女の二人組だったよ”
(…俺たちと同じ目的で、この谷に来た奴らがいるってことなのか…?)
胸に小さなわだかまりが生まれる。
「それにしても、今夜は冷えますね」
小夜の口から漏れた白い息が、欠けた月の浮かぶ夜空に溶けていくのを、朱里はじっと目で追っていった。
集落唯一の宿は、一階が食堂になっており、客室はすべて二階に配置されていた。
各部屋には大きなテラスがついていて、そこから集落を見下ろせるようだ。
部屋に荷物を置くと、朱里は小夜に声をかけて食堂で遅い夕食を摂ることにした。
無駄にだだっ広い食堂に並べられた丸テーブルは、そのほとんどが空席だった。
今のところ食事を摂っているのは朱里たちだけのようだ。
(まぁ当然だよな。こんな辺境にわざわざ来る奴なんてそういねえだろうし)
早々に食事を終えた朱里は、今なお懸命にフォークを動かす小夜の様子を、頬杖をついたままぼんやり眺める。
「うまいか?」
朱里の問いに、小夜がこくこくと首を動かして返事をした。
「とってもおいひいですっ」
「そりゃよかった。しっかり食ってうんとでかくなれ」
「がんばります!」
しばらくそうして視線を漂わせていた朱里は、テーブルの片隅に置いていた厚手の本を手に取った。
金糸で縁取られた夜を思わせる濃紺色の表紙をめくり、ずらりと並んだ文章に指を這わせる。
この本は昼間、朱里がムーランの歴史、伝承等を蒐集している住人の書庫から借り出してきたものだ。
本の表紙には、剥がれかかった金色で『月影の伝説と伝承』という文字が型押しされていた。
ずいぶん古い文献らしく、文体がかなり固い。
紙上に溢れ返った文字の海をなぞる朱里の指が、ある箇所でぴたりと動きを止めた。
「…これか」
朱里の呟きに、小夜も食事を中断して身を乗り出してくる。
「お花のことについてですか?」
「ああ」
小夜に聞かせる意味も込めて、朱里は指を留めている部分の文章を暗唱してみせた。
「──黒き夜、其の花は月となりて世界をあまねく照らせり。月、花の前にて籠り、暫し其の影押し止めん。花を手にし彼の者、民の月となりて……」
じっと文章を見つめていた朱里は、息を吐いて顔を上げた。
「駄目だ、この後は字が潰れててよく見えねえな。"統"って字が書いてあるような気はするが…」
「これ、どういう意味なんでしょうか?」
小夜が首をひねって本に視線を落とす。
「黒き夜…夜はいつも黒いですよね」
考えれば考えるほどちんぷんかんぷんらしい。
朱里は小夜のほうに本を向け直すと、文頭を指でとんとんと叩いてみせた。
「いいか、これは」
朱里が口を開きかけたそのとき、どかどかと派手な靴音を立てて、人影が食堂に入ってきた。