第1章

幻月花の谷





世界は穏やかな闇の中で、静かに呼吸を繰り返していた。

黒く染まった空には、置き去りにされた月が所在無げに浮かび、下界に広がる山並みを仄かに照らしている。


そこは見渡す限り、雪に覆われた山が続いていた。それ以外は何もない。
ある山と山の間に佇む、小さな谷をのぞいては。


その深い谷は、左右を針葉樹林の連なる高い岩壁に囲まれていた。
昔は川が流れていたのだろう、蛇行するように細長い形状をしている。

谷にじっと目を凝らしてみると、かすかな白煙があちこちに湧いているのが見えた。

小さな光が点在し、ときおり点滅する。

人々から忘れられた山奥の中、谷には確かに生命が息づいているようだった。
そっと息をひそめるように、夜陰にその身を隠しながら。



都から遠く離れたその谷を、人々はこう呼んでいた。


月影の谷、ムーランと──。


****



「元々この谷の名前は、月明かりって言葉に由来してるらしい」

「ということは、それだけここではお月様が大切ということでしょうか?」

「そうなんだろうな、たぶん」

へえ、と感心したように空を見上げる小夜に倣って、朱里は上を仰ぎ見た。

漆黒の夜空に、ぽつんと浮かんだ月が視界に入る。

深い谷底から見上げているせいか、普段よりずいぶん遠く感じられる月は、右側がかじられたように大きく欠けて痩せ細っていた。



朱里と小夜は今回、ムーランと呼ばれる小さな谷の集落を訪れていた。

人の集まる街からはかなり離れた辺境の地だ。

そんな場所に来る理由は、言うまでもなく仕事のためである。


彼らの仕事、それはすなわちトレジャーハンターと呼ばれるものであり、宝探しを生業とする職業だ。

世界中に散らばる宝の伝承を追い求め、この世の果てまで旅をする。

そう表現すると、夢に溢れた職業と思うだろうが、実のところ、かなり厳しい仕事である。


朱里たちトレジャーハンターは、宝が見つかればかなりの利益を得る。
だが裏を返せば、宝を見つけない限り、完全なる無収入というわけだ。

要するに安定とは無縁の、波が激しい職業というのが実体だった。


現にこの集落の噂を耳にするまで、二人には手持ち無沙汰な日々が続いていた。

宝の情報も入らず、ただ淡々と街中をうろつくばかりの生活。
さすがにそろそろ仕事を見つけなければ、と朱里が焦り始めていた頃、ちょうどこの谷の噂が飛び込んできたのだ。

ろくに噂の詳細を訊くこともせず、朱里は小夜の腕を引くようにしてここまで来ていた。


その噂というのが、幻月花と呼ばれる珍花についての話である。


──ある山の奥深くには、自ら白い光を放つ花が咲いている。


古くからこの地方で語り継がれている伝承の存在は、朱里も知っていた。

だがそれはあくまで伝説上の話であって、真実ではなかったのだ。
あの噂を耳にするまでは。


朱里が聞いた噂とは次のようなものだった。


* * * *



奥深い山の中に、自ら光を放つ不思議な花が咲いているのを、一月ほど前にある男が発見した。

その男は幻月花の伝承が色濃く残るムーラン谷に暮らしていたが、実際その花を目にしたのはそれが初めてだと言う。

男は伝承を信じていたわけではなかった。

所詮は子どもが寝物語代わりに聞くおとぎ話。ただの作り話だ。
だからその花を見たときも、伝承のそれとは結び付けなかった。

きっと白い花弁の花が、月の光を反射しているだけだろう。
そう考えた。

そして男はそのまま花に触れることなく山を下りた。



それから程なくして、男は再び山に入った。

花が気になったわけではない。
男は木こりを生業としていたから、その夜もそのために山に足を踏み入れた。

男はすっかり花のことなど忘れていた。

だが木を切り倒しているとき、ふと頭に光を放つ花の姿が浮かんだ。

男は息抜き代わりにという軽い気持ちで、以前花を見かけた場所に行ってみることにした。


だが、そこに着いてもそれらしき花はない。

不思議に思った男は周囲を探してみたが、あの日確かに見た花はどこにも咲いていなかった。


そのときになって男はようやく思い至った。


もしかしたらあれは、言い伝えにある本物の幻月花だったのではないか。


それから男は三日三晩寝ずに花を探し回ったが、結局見つけることはかなわなかった。


* * * *



この話を朱里は、噂に出てくる男と同じムーラン出身の者から聞いた。

その者は最後にこう付け足した。

“結局あいつはあの後、その花に魅了されて姿を消しちまった。きっと今もどこかの山の中を、一人で彷徨い歩いてるに違いないよ”



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