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第1章
幻月花の谷
世界は穏やかな闇の中で、静かに呼吸を繰り返していた。
黒く染まった空には、置き去りにされた月が所在無げに浮かび、下界に広がる山並みを仄かに照らしている。
そこは見渡す限り、雪に覆われた山が続いていた。それ以外は何もない。
ある山と山の間に佇む、小さな谷をのぞいては。
その深い谷は、左右を針葉樹林の連なる高い岩壁に囲まれていた。
昔は川が流れていたのだろう、蛇行するように細長い形状をしている。
谷にじっと目を凝らしてみると、かすかな白煙があちこちに湧いているのが見えた。
小さな光が点在し、ときおり点滅する。
人々から忘れられた山奥の中、谷には確かに生命が息づいているようだった。
そっと息をひそめるように、夜陰にその身を隠しながら。
都から遠く離れたその谷を、人々はこう呼んでいた。
月影の谷、ムーランと──。
「元々この谷の名前は、月明かりって言葉に由来してるらしい」
「ということは、それだけここではお月様が大切ということでしょうか?」
「そうなんだろうな、たぶん」
へえ、と感心したように空を見上げる小夜に倣って、朱里は上を仰ぎ見た。
漆黒の夜空に、ぽつんと浮かんだ月が視界に入る。
深い谷底から見上げているせいか、普段よりずいぶん遠く感じられる月は、右側がかじられたように大きく欠けて痩せ細っていた。
朱里と小夜は今回、ムーランと呼ばれる小さな谷の集落を訪れていた。
人の集まる街からはかなり離れた辺境の地だ。
そんな場所に来る理由は、言うまでもなく仕事のためである。
彼らの仕事、それはすなわちトレジャーハンターと呼ばれるものであり、宝探しを生業とする職業だ。
世界中に散らばる宝の伝承を追い求め、この世の果てまで旅をする。
そう表現すると、夢に溢れた職業と思うだろうが、実のところ、かなり厳しい仕事である。
朱里たちトレジャーハンターは、宝が見つかればかなりの利益を得る。
だが裏を返せば、宝を見つけない限り、完全なる無収入というわけだ。
要するに安定とは無縁の、波が激しい職業というのが実体だった。
現にこの集落の噂を耳にするまで、二人には手持ち無沙汰な日々が続いていた。
宝の情報も入らず、ただ淡々と街中をうろつくばかりの生活。
さすがにそろそろ仕事を見つけなければ、と朱里が焦り始めていた頃、ちょうどこの谷の噂が飛び込んできたのだ。
ろくに噂の詳細を訊くこともせず、朱里は小夜の腕を引くようにしてここまで来ていた。
その噂というのが、幻月花と呼ばれる珍花についての話である。
──ある山の奥深くには、自ら白い光を放つ花が咲いている。
古くからこの地方で語り継がれている伝承の存在は、朱里も知っていた。
だがそれはあくまで伝説上の話であって、真実ではなかったのだ。
あの噂を耳にするまでは。
朱里が聞いた噂とは次のようなものだった。
奥深い山の中に、自ら光を放つ不思議な花が咲いているのを、一月ほど前にある男が発見した。
その男は幻月花の伝承が色濃く残るムーラン谷に暮らしていたが、実際その花を目にしたのはそれが初めてだと言う。
男は伝承を信じていたわけではなかった。
所詮は子どもが寝物語代わりに聞くおとぎ話。ただの作り話だ。
だからその花を見たときも、伝承のそれとは結び付けなかった。
きっと白い花弁の花が、月の光を反射しているだけだろう。
そう考えた。
そして男はそのまま花に触れることなく山を下りた。
それから程なくして、男は再び山に入った。
花が気になったわけではない。
男は木こりを生業としていたから、その夜もそのために山に足を踏み入れた。
男はすっかり花のことなど忘れていた。
だが木を切り倒しているとき、ふと頭に光を放つ花の姿が浮かんだ。
男は息抜き代わりにという軽い気持ちで、以前花を見かけた場所に行ってみることにした。
だが、そこに着いてもそれらしき花はない。
不思議に思った男は周囲を探してみたが、あの日確かに見た花はどこにも咲いていなかった。
そのときになって男はようやく思い至った。
もしかしたらあれは、言い伝えにある本物の幻月花だったのではないか。
それから男は三日三晩寝ずに花を探し回ったが、結局見つけることはかなわなかった。
この話を朱里は、噂に出てくる男と同じムーラン出身の者から聞いた。
その者は最後にこう付け足した。
“結局あいつはあの後、その花に魅了されて姿を消しちまった。きっと今もどこかの山の中を、一人で彷徨い歩いてるに違いないよ”