「あー…」

空気を読んだ綺羅が、必死に言葉をひねり出そうとしているのか額に手を当てて呻く。

「…それじゃあ、そろそろ私たちはお暇しましょうか」

なんとも居心地が悪そうに、朔夜の肩を叩いて綺羅が告げた。

だが今の空気に気付いていない朔夜は不満そうに唇を突き出すと、

「ええーもう行くのかよ。俺まだここにいたいんだけど」

駄々をこねる朔夜を、綺羅が一喝する。

「未練がましいわよ。男なら最後くらい潔くさよならしなさい」

背中をはたかれて、朔夜はなんとも情けない顔になった。

唖然とそんな二人を見守る朱里と小夜に、綺羅が先ほどとは打って変わって爽やかな笑顔を向ける。

「邪魔しちゃって悪かったわね。私たちはこの谷を出るけど、君たちはしばらくここに残るんでしょ?だったらいいこと教えてあげるわ」

そう言い置いて、綺羅がぴんと人差し指を立ててみせた。

「今日から、そうね…半月くらい経った日の夜、ここのテラスに出てみて。きっといいものが見つかるから」

ふっと笑みをこぼして、朱里と小夜に背を向ける。

左手にはがっしりと朔夜の腕が捕獲されていた。

「ちょっと放せって…!俺まださよならも言ってないぞ」

「つべこべ言わずにさっさと行くの」

「あっ、馬鹿!全然よくないって…おい!」

傍から見れば犯罪者が強制連行されていく図だ。


いつもと変わらない賑やかなやり取り。

初めて見かけたときと同じように、二人は忙しなく口を動かしながら去っていく。

「ほら、さっさと出て」

「痛っ!ちょ…小夜ちゃん、坊主、またな!」

必死でこちらに手を振る朔夜を綺羅が力ずくで部屋の外へ押し出し、自分も扉をくぐる。

が、そこで突然朱里たちのほうを振り返った。


何か言おうとして口を開きかける。
だがすぐに首を振って再び背を向けた。

扉の向こうに、長い黒髪を揺らしながらしなやかな後ろ姿が消える。

扉が閉まると、室内は再び静寂に包まれた。




朱里と小夜は互いに顔を見合わせる。

「あいつらって…結局何だったんだろうな」

「不思議な方々でしたね」

まるで嵐のように現れ、嵐のように去っていった二人組。

名前と同業者ということ以外は結局最後まで知れなかった。

あまりにすべてがあっという間で、夢を見ているようでもあった。


一瞬にして吹き抜けていった風の名残は、もうどこにもない。

おそらくこの先会うことはないだろう。
理由もなくそんなふうに思えた。


だがこの谷で起きた出来事は決して夢ではない。

小夜の膝上に置かれた花を見れば明白だ。


──幻月花。


朱里が頭のどこかで、手に入れることを怖れていた花。

それが今ここにある。
小夜の手元に、確かな形で。


「それ…」

「はい?」

「その花…」

小夜が自分の膝上に視線を向ける。

捨ててしまおうか、とは言い出せなかった。

鉢植えに入ったその白い花弁を、小夜がそっと指で触れたからだ。

「すごく不思議なんですが…」

そう前置いて小夜は詠うように呟いた。

「この花…呼んでいたんです、私を」

冗談を言っているふうではなかった。

嬉しそうな微笑みを花に向けて、小夜は大事そうに花に触れる。

「私を見つけて、って言ってるみたいでした。大きな木の下に一つだけ咲いているこの花を見つけたとき、どうしてか嬉しくて…それなのに泣きたいような気持ちにもなって…」

もしかしたらそのとき小夜は、花と心を通じていたのだろうか。

何かに呼ばれたその先で、一本の光る花を見つけた小夜。

そのとき花の感情が小夜に直接流れ込んできた。

花の思いは小夜の思いと重なり、そして…。


そんな突拍子もない考えに思い至って、朱里は小さく首を振る。

まさか。
そんな馬鹿な。

傍らで花を慈しむ小夜の姿が、その否定を拒む。

胸に湧き上がる不安に、朱里の胸がじくりと膿を落とした。


何度も脳裏で繰り返された一節。

──花を手にし彼の者、民の月となりて──

その先は考えたくもなかった。

できることならこのまま目を逸らし、胸に巣食う不穏な闇にも蓋をしてしまいたい。


小夜が花から朱里に視線を転じる。

柔らかい笑顔が向けられ、唇が小さく開き、


「────」


何と言ったのか、まったく聞き取れなかった。


小夜がまた笑う。
無音の世界で。

楽しそうに。
幸せそうに。


朱里にはそれが、ひどく遠いところのものに感じられた。



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