地面に投げ出した手の先に固い感触が触れた。
何だろうと考えて、自分が手にしていたランタンに思い至る。崖から落ちた衝撃で火が消えてしまったらしく、もはや役目はまったく果たしていない。
息苦しくなるくらい濃密な闇の中、朱里は岸壁に背を預けて一人地面に腰を下ろしていた。
周囲からは何の音もしない。
それでも初めの頃は、小夜が引き返してくるかもしれないと耳を澄ませていたのだが、無意味なことだとようやく悟った。
今頃は麓を目指して下山しているのだろう。
何事もなければ問題はない。
だがもし、さっきのように足を踏み外しでもしていたら。
朱里は肌が粟立つのを感じた。
まさか小夜に一人で山を歩かせることになるなんて、予想もしなかった。
情けない。
何が「何度転んだっていいよ」だ。言った張本人がドジを踏んでいれば世話はない。
挙げ句にこの様だ。
言葉が足りなかったせいで、小夜にいらない誤解を与えてしまった。
朱里は頭を壁に預けたまま、ぼんやり上空を見上げる。
月もなく、星も見えない空は地上の闇と混じって、どこまで延びているのか分からない。
自分が闇色の空に浮遊しているような錯覚さえ起こす。
夜が明けるのは当分先になりそうだ。
明け方の空を思い浮かべて上を仰ぐ朱里の顔に、そのときこつんと小さな欠片が当たった。
「……?」
ぱらぱらと崖上から土の粒が落ちてくるような音。
闇にじっと目を凝らしていると、突然崖上に青い月が現れた。
驚きに目を見張る。
ほのかに青く光るそれは間違いなく月の明かりだ。
だが瞬間的に月が姿を表すなど、聞いたことも見たこともない。
唖然とする朱里に、誰かの声が届いた。
「朱里さんっ」
聞き慣れた声だ。だが一瞬誰なのか分からなかった。
ぽっかり浮かんだ月の隣に青く照らし出された小夜の顔が現れて、ようやく朱里は得心がいく。
崖の上に立って小夜はこちらを見下ろしていた。
戻ってきたのだ。
素直に安堵の息を漏らしたとき。
「ざまあねえな」
小夜の隣でこちらを見下ろす朔夜の姿が見えた。
腹の立つことに、身動きのとれない朱里を見てにやりと笑みを浮かべている。
「迷子の子どもみたいだぞ」
「うるせえ」
軽く毒づいて、朱里は拳を大きく掲げてみせた。
綺羅の提げたランタンの炎を背に、小夜が勢いよく駆けてくる。
ふと、自分を置いて去っていく小夜の背中と像が重なったが、軽く首を振って誤魔化した。
「遅れてしまってごめんなさいっ」
傍らに膝をついた小夜が、朱里の顔を覗き込んでくる。
「いや」と朱里は首を横に振ってそっけなく答えた。
本当は「戻ってきてくれてありがとう」とか「俺のほうこそごめん」とか、言いたい言葉は山ほどある。
だが一度それを口にしてしまえば、一気に感情の波が押し寄せるのは分かっていた。
ただでさえ油断すれば、自らの腕が小夜を引き寄せようとするのだ。
直接温もりに触れて小夜の無事を確かめたい。
小夜が自分の側にいるのだと感じたい。
そう訴えかける本能に蓋をするように、朱里は口を閉ざす。
すると小夜までもが唇をきゅっと引き結んだ。強張った顔には、不安と怯えの色がありありと浮かんでいた。
なぜこんな顔をするのか。
一人で暗い山の中を彷徨っていた間、よほど怖い思いでもしたのだろうか。
よく見れば、小夜の服の前は泥にまみれて酷い有り様だ。白い頬にまで泥が散っている。
小夜の苦労は簡単に見てとれた。
「…迷惑かけたな」
労うというより、小夜の緊張を解すつもりでかけた声だった。
小夜が唇を噛み締めて首を横に振る。
朱里はその泥に汚れた頬に指を伸ばす。
そっと親指の腹で泥を拭ってやりながら、
「おかげで助かったよ。さすがは俺の相棒だ」
小夜の滑らかな頬から伝わるほのかな温もりに、朱里がふっと頬を緩めたときだった。