何かから逃げるように必死で走っていた。
視界は闇に塗り潰されて、言葉どおり何も見えない。小夜の眼前に広がっているのは無だ。
唯一分かるのは、山道を下っているという感覚だけだった。
早く助けを呼びに行かないと。
その思いに急かされて、小夜は走り続ける。
だが本当の理由はもっと別のところにあるのかもしれない。
脳裏では朱里の声が響いていた。
自分を呼び止める必死な声。
小夜はそれを振り切って逃げてきた。驚きに目を見張る朱里の顔が思い出される。
本当はあんなこと言うつもりなんてなかった。
自分が朱里に信用されてないと分かった途端、口をついて出ていたのだ。はっきり言ってしまえば自棄になっていた。
助けを呼びに行く間に、またお前はドジ踏むんだろ。
暗にそう言われたことが悲しくて、それ以上に悔しかった。
唇を噛み締めて、小夜は闇の中をひた走る。風が鋭利な刃物のように冷たく頬をかすめていくが、構わず足を動かした。
このまま山を下って、谷に戻って、助けを呼んで。その後は?
また元通り、朱里の側に戻ることができるだろうか。あんなことを言ってしまった後で。
ふいに胸を不安がよぎる。
思わず後ろを振り返ろうとした瞬間、地面のぬかるみに足を取られて、小夜はうつ伏せの状態で地面に突っ伏した。
雪解けのぬかるんだ地面に、湿った音が響く。
「…っつう」
濃い土の匂いに眉を寄せ、小夜は顔を上げた。
また自分は転んでしまったらしい。
普段から朱里に気をつけるよう言われていたのに。
「あーあ。ほら、大丈夫かよ」
突然、顔の前に誰かの手が差し出された。
見上げれば、呆れたようにしゃがみ込んでこちらを見下ろす朱里の姿があった。
「朱里さん…」
「泥だらけじゃねえかよ。後で着替えないとな」
そう言って、さらに手を差し出してくる朱里は、どこか愉快そうに笑ってもいた。
小夜は顔を赤らめて視線を落とす。
「す、すみません。またやってしまいました…」
申し訳ないと思いつつ、自分より大きな手に手を伸ばして。
だが、小夜の手は何も掴むことなく空を切った。
「えっ」
顔を上げた先に、朱里の姿はなかった。
転ぶ前と寸分変わらぬ闇だけが視界を覆い尽くしている。
小夜を引き上げてくれる大きな手は、どこにもなかった。
「だって…そんな…」
自分は幻を見ていたのだろうか。
ほんの直前まで、自分に笑いかける朱里の顔があったのに。
何度瞬きをしても、視界に映る景色は変わらない。
現実は闇の姿を装って、小夜の前に漠然と漂っていた。
宙をさまよっていた腕が、ぱしゃんと地面に落ちた。
体の端から溶け出てしまいそうな闇に身を浸して、小夜は声なく笑う。
どうかしている。
朱里がここにいないことは、自分が一番よく分かっているはずなのに。
朱里は動くことができない。
そうしたのは自分だ。
それなのに、まだ自分を助けてくれることを望むのか。
都合のいい幻想まで生み出して。
小夜の口元から笑いにも似た渇いた息が漏れた。
「最低です…」
このまま闇に溶けてしまいたい。
欲も何も感じない無になりたい。
そうして小夜が固くまぶたを閉じたときだった。
目の奥で、見覚えのある青い光が明滅した。