遠く野鳥の鳴く声が、尾を引いて聞こえる。
見上げた空には月がない。暗い夜だった。
小夜は朱里と並んで山の入口に立っている。
一寸先は闇だ。黒々と茂った木々が行き先を阻むように、濃厚な闇で覆い隠す。
「準備はいいか?」
手元のランタンに明かりを灯して、朱里が告げた。
小夜は頷く。
「俺が先を歩くから、お前は後ろをついてこい。あんまり離れると足元が見えなくなるから気をつけろよ」
「はい…」
答える小夜の頭に朱里の手が乗せられた。
見上げると、暖かな灯りの中、朱里が小夜を見下ろして笑っていた。
「いつもどおり、のんびりいこうぜ」
ぽんぽんと小夜の頭を叩く。その感触が心地よくて、小夜は小さく笑みをこぼす。
「それじゃ、行くか」
朱里の後に続いて、小夜は山の中へと足を踏み入れていった。
傾斜は思った以上に急だった。
歩き始めて間もないというのに、知らず知らずのうちに息が乱れる。
小夜のことを慮ってか、朱里は普段以上にゆっくりと歩を進めてくれていたが、油断すればすぐに距離が開いてしまいそうだ。
時折後ろを振り返る朱里になんとか笑顔を返すものの、小夜は自分の体力の限界を感じていた。
今は山のどの辺りまで上ってきているのだろうか。
休みたい。
少しでいいから足を止めて休息したい。
頭の中を同じ思いばかりが巡回する。
呼吸を繰り返しながら、何度思いを言葉に出そうとしたことか。
だが結局小夜はそれを許さなかった。
勾配のきついルートを選んだのは自分だ。今さら弱音を吐くわけにいかない。
それに、綺羅と朔夜の存在もある。
あの二人も間違いなく今頃は、幻の花を求めて山に入っているはずだ。
ならば休んでいる暇はない。
そのとき、もう何度目になるか朱里が後ろを振り返った。
「なあ、少し休むか?」
息を吐き出しながら小夜は答える。
「いえっ…大丈夫ですから、先に進みましょう」
「でも疲れただろ」
「平気ですっ」
頑なに小夜は笑ってみせる。
笑顔を崩してしまえば、きっと朱里は無理やりにでも休憩を摂ろうとするだろう。
「行きましょう、朱里さん」
今はとにかく前進するしかないのだ。
朱里は諦めたように再び背中を向けて歩き始める。
「…無茶はすんなよ」
背中が発した不器用で温かい言葉に、小夜は小さく微笑みを浮かべた。
周りの景色は変わらない。
そのせいで同じ場所を歩いているような錯覚に陥る。
本当にいつか頂上が見えてくるのだろうか。
胸に滲む不安に、小夜は前を行く背中から視線を逸らして上空を仰ぐ。
だがすべてが黒に塗り潰されていて、どこまでが木で、どこからが空なのかも分からない。
ランタンの炎がなければ、自分は今完全な闇の中を歩いているのだ。
右も左も、自分の足元すら見えないような深い闇の中を。
そう考えると身震いがする。
朱里の背中を見失ってしまえば、自分はこの闇に一人取り残されてしまうのか。
そのとき、小夜の足首を何かがかすめた。
「ひあっ」
驚いて足を横に退ける。
が、そこにあるはずの地面の感触はどこにも感じられなかった。
「──あ」
予告なく体の均衡が崩れる。
今思えば、足をかすめたのは地面に落ちていた木の枝か何かだったのだろう。別段驚く必要もないものだったはずだ。
だが、今それを考えてもどうしようもない。
小夜は自分の体が奈落に吸い込まれていく感覚に襲われていた。
視界に映る朱里の背中が遠ざかる。
そして一人墜ちていく。
視界のすべてが闇に覆いつくされる直前、誰かが自分の名前を叫ぶ声が聞こえた。
続いて自分の体を抱く温かな感触。
小夜はそのまま闇に呑み込まれていった。