朱里はしばらく考えた後、努めて何気ない口調で小夜に喋りかけた。

「なあ、寒くないか?」

突然の質問に、躊躇いつつも小夜がうなずく。

「はい、少し寒いです」

「じゃあこっち来いよ」

暗闇の中にいても、小夜が目を丸くしてこちらを見ているだろうことは分かった。

「あ…では、ちょっと待っていてください」

慌てて部屋に引き返そうとする小夜に、朱里は続けて声をかけた。

「その手すり乗り越えてこっち来ればいいよ。テラス同士はほとんどくっつくような距離だし、危なくねえだろ」

実際朱里の言葉どおり、テラスとテラスはぴったりと寄り添うように並んでいた。

なるべく一つのテラスを広く設けようとする設計者の考えがあってのことだろう。

朱里の提案に小夜は逡巡する様子を見せたが、すぐに「はい」と返してテラス端の欄干に手をかけた。


欄干は小夜の胸下までの高さがある。

なんとか腕に力を入れて体を持ち上げ、膝を欄干の上に乗せたところで、小夜の体が均衡を崩して前のめりに倒れた。

「あっ」

手すりから手が外れ、朱里側のテラスの石床に体が吸い寄せられる。

落ちることを覚悟したとき、小夜の体は何か温かいものに包まれて衝撃を避けていた。


うつ伏せになった体を起こすと、小夜のすぐ下から声が発せられた。

「…やると思った」

瞬間、小夜は自分を落下からかばったものが何なのかを知った。

「あっ!ごめんなさいっ」

下敷きになった朱里の上から飛び起きると、朱里もゆったりした動作で手を石床について半身を起こした。

「ほんと期待を裏切らない奴だよな、お前って」

朱里が苦笑してみせる。

するとすぐ側に座り込んだ小夜が泣きそうに顔を歪めた。

「本当にごめんなさい。また朱里さんにご迷惑を…」

「いいんじゃねえの」

「え…」

思わずこちらを見返してくる小夜に、朱里は笑って答える。

「お前は多少とろくさくたっていいんだよ。今だって、こうなること予想してこっちに呼んだんだから」

ほのかな月明かりの下、不思議そうに朱里を見つめる小夜の瞳には、小さな星が幾つも煌いていた。

「確かに、綺羅から学べることは学べって言ったよ。けどな、何もあいつみたいになれとは言ってないから。お前はお前、綺羅は綺羅だろ。人はどんなに頑張ったって他人にはなれないんだ。無理に人のことばかり見てると、せっかくの自分のいいところ見逃しちまうぞ」

「私のいいところ…?」

「ああ。いっぱいあるよ。俺にはよく見える」

言葉の真偽を確かめようと自分の体を見下ろす小夜に、朱里は続けて言った。

「それに変な話、俺嫌いじゃないんだよな。こうしてお前をフォローするの。だから何度転んだっていいよ。その度に俺が助け起こしてやるから」

軽口に見せかけて笑いで誤魔化したが、この言葉は冗談でも嘘でもなかった。

小夜が傷つきそうなら、自分は迷わず手を差し伸べるだろう。

ほとんど反射的に、体を呈して小夜を障害から庇護しようとするかもしれない。


その理由は単純で明確だ。

小夜に傷を負わせたくないから。

以前朱里の故郷の町で起きた一連の出来事で、朱里は痛いほどにそれを感じていた。

小夜が傷ついてしまうくらいなら、自分が大怪我を負ったほうが何倍もましだ。いくらでも傷ついてやる。

傍らで自分を見上げてくる小夜に、朱里は冗談めかして言ってやった。

「ほら、元気出てきただろ?」

心の内に秘めた思いには固く蓋をして、笑みさえ見せる。

だが小夜は反対に、面目なさそうに目を細めてうつむき加減に答えた。

「…でもそれでは朱里さんが私の代わりに怪我をされてしまうかも…」

いいんだよ、俺のことはどうだって。

そう即答してしまいそうなのをなんとか抑えた。

「馬鹿だな。俺はちゃんと受身の方法を知ってるから、そうそう怪我なんてしねえよ。お前は安心してこけろ」

朱里の最後の言葉に、ようやく小夜が久しぶりの笑みをこぼした。

「ふふっ、なんだか変ですよ。安心してこけろなんて初めて聞きました」

楽しげに微笑みを浮かべて朱里を見上げる小夜。

朱里が守りたいものとは、まさにこれだった。

「お前はそのままでいいんだよ」

小さくささやいた言葉は、きっと小夜には届いていない。

天を仰ぐと、弓なりに細くしなった月が、静かに二人を見下ろしていた。



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