ベッドに潜り込んだ朱里は、夢と現実の狭間を漂っていた。
すぐ側にある両開きの大きな窓からは、冷たい月の光が、室内に窓格子の影を落としていた。
窓の向こう側には広いテラスがのぞいている。
室内はしんと静まり返っていた。
まだ完全には意識を手放していない朱里からは、呼気の音すらも聞こえない。
かすかな月明かりを除いては闇一色の窓の外も、無音の世界が広がっているようだ。
この谷は深い眠りに就こうとしている。
目を閉じたまぶたの裏に、ちらちらと小さな青い光が明滅していた。
自分は夢を見ているのだろうか。
朱里は曖昧にぼやけた意識の糸を、手繰ったり離したりしながら思う。
今にも消えてしまいそうな光が、闇に染まった網膜をくすぐる。
これは月の明かりだろうか。
いや違う。
これはあの花の…。
かたん、とどこかでかすかな音が響いた。
誰かが扉か何かを開いた音。
その途端、まぶたの裏で揺らめいていた光の粒が消失した。
意識が少しずつ浮上していく。
再び何かが閉じられる音が聞こえたとき、朱里は夢の安寧に別れを告げ、うっすらとまぶたを開いた。
部屋の出口に目をやり、次いで背後の大窓に視線を移す。
どちらも固く閉ざされたままだ。
特に変わったところはない。
音の源はこの部屋ではなく、どこか別の場所のようだ。
大方、宿の客が水でも飲みに立ったのだろう。
気を取り直してもう一度眠りなおそう。
朱里が毛布を頭までかぶって目をつむろうとしたときだった。
かたん。また音がした。
朱里は今度こそ、テラスへ繋がる窓を振り返る。
音は確かに窓の外から聞こえてきた。
といっても、当然この部屋のテラスに誰かが忍び込んでいるわけではない。
おそらくこのテラスのすぐ近くに人がいるのだ。
例えば、隣接する部屋のテラスに誰かが出てきた、とか。
朱里は隣室の主の顔を思い起こす。
無言でベッドを抜け出すと、彼は窓を押し開いて冷たいテラスに降りていった。
「何してるんだ?こんな時間に」
静かな夜に発せられた朱里の声は、凛と張りつめた空気を伝って響き渡った。
隣のテラスの欄干から月を見上げていた少女の影が、びくりと肩を震わせて朱里のほうに顔を向ける。
月の光が弱々しいせいで少女の面立ちはまったく見えなかったが、朱里にはそれが誰なのか分かっていた。
「どうしたんだ、小夜」
名を呼ぶと、小夜の影は逡巡するように頭を垂れた後、ぽつりと声を漏らした。
「なんだか眠れなくて…」
少しの間が空いて、再び小夜が言葉を紡ぎだす。
「いよいよ明日ですね。もう月もほとんど欠けて見えなくなっていますし」
空を仰いだ小夜の影はどこか頼りなげに揺れていて、今にも闇に溶けて消えそうだ。
そんなことあるはずがないのに、朱里は急くように言葉を探した。
「緊張してるのか?」
小夜はきっと首を横に振るだろう。
大丈夫だと、いつものように笑って答えるに違いない。
そう思って待っていると、小夜の顔がわずかばかりうつむけられた。
「…少しだけ…」
そうささやく。
「…明日のことを考えると、今からドキドキしてしまって…。さっきは歩く練習をしてるから大丈夫なんて言いましたが、まだ転んでばかりですし、人にもよくぶつかってしまって…」
小さな吐息が漏れる。
「…やっぱり私には難しいんでしょうか…。どんなに頑張っても、綺羅さんのようにはなれないんじゃないかって、そう思うと寝られないんです…」
そのまま小夜は押し黙るように顔をうつむけた。
重い静寂の中、朱里は頭を掻いて痩せ細った月を見上げる。
体の大半を黒い闇に蝕まれた今の月には、小夜の願いに応えられるだけの力は残されていないだろう。
こんな夜中に一人月を見上げても、きっと小夜の心は晴れない。