谷は緩やかに朝を迎え入れようとしていた。

山際の向こうの空からのぞいた朝日が、山の稜線をなぞりながら、少しずつその姿を現していく。

闇の底に沈んでいた日常が、日の光を浴びてようやく浮かび上がる頃。


東向きに並んだ窓から、眩いほどの朝日の筋が差し込んでくる。

明るくなった食堂で、朱里と小夜は早めの朝食を摂っていた。

昨夜と同様、今朝も他の客はいない。

もしかしたらここに宿泊しているのは、自分たちだけなのではないか。

その可能性が頭に浮かんだが、朱里は自らその考えを打ち消した。

そういやあいつらもここに泊まってるんだよな。

もっとも、昨夜この宿で夜を明かしたかどうかは、はっきりしないが…。

頭の隅に、闇の中を走り去っていく二人組の後ろ姿が浮かんだが、あまり深くは考えないことにした。


長時間座り通しの体をほぐそうと、朱里は椅子の背に体を預けたまま、大きく伸びをする。

食べ終えたらもう一度、町の中を散策してみるつもりだった。
借りていた本も返さねばならない。


「もう返してしまって大丈夫なんですか?」

不安げに尋ねてくる小夜に、朱里は口の端を上げ、自分のこみかめをとんとんと指差してみせた。

「全部こん中に入ってるから問題ねえよ」

本に記載されていた必要な情報は、すべて頭に刻み込んでいる。


それにしても、なかなか興味深い本だった。

この谷に現存する伝承はもちろん、この谷の起源なども、挿絵を交えて事細かに記されており、すっかり夢中になって読み耽ってしまった。

昨夜から夜通し休みなく読んでいたなんて、小夜には間違っても言えない。

(…けど、一つだけ気になることがあるんだよな…)


朱里はテーブルの上に視線を落とすと、そこに無造作に置かれた本の表紙をそっと撫でた。
そのままページをめくる。


──花を手にし彼の者、民の月となりて…。


この先がどうしても読めない。

おそらく伝承の類に多く見られる、幸福を得るとかいうような内容が書かれてあるのだろうが、朱里にはこの続きが妙に気になって仕方なかった。

なぜだか胸騒ぎのようなものがする。

(後で、本を貸してくれた人にでも訊いてみるか)

理由の分からないざらついた不安から顔を背けるように、朱里は本を閉じた。

ちょうど向かいの席では、小夜が「ごちそう様でした」と満足げな顔で、空いた皿を片付けているところのようだ。

朱里の視線に気付くと、小夜は笑顔をこぼした。

「朱里さん」

白光を浴びる柔らかそうな微笑みに、思わず目を奪われてしまう。

小夜の手が、テーブルの隅に除けていた朱里の皿に伸びた。
そのまま朱里の前に皿が差し出される。


「ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」

驚くくらい愛らしいと言える笑顔の小夜にたしなめられて、視線を下ろした朱里の先には、細切りにされた野菜の残った皿。

野菜のオレンジ色が嫌に目についた。

「せっかく宿の方が作って下さったんですから。ねっ」

ねっ、と言われても、朱里には返す言葉がない。

笑顔で自分を見守る小夜の姿に、うっすら背中が汗ばむのが分かった。

「も、もう腹がいっぱいなんだよ」

「じゃあ取っておいてもらって、お昼にまた召し上がりますか」

決死の打開策に講じるも、あえなく撃沈。

作意や悪気が皆無なのが、小夜の厄介なところだ。

言葉どおり、ニンジンの残った皿を持って調理場のほうへ向かう小夜の後ろ姿に、朱里はため息をついた。

昼までに次の言い訳を考えておかないと…。

昼食のことを思うと、気が滅入りそうだ。




窓からのぞく外の景色は、少しずつ変化を遂げていた。

ようやく谷の人々が活動を始めたのだ。
これなら本を借りた男の元を訪れても、迷惑にはならないだろう。

それまで食堂で小夜と二人、まったり寛いでいた朱里は久しぶりに腰を上げた。

「準備できてるか?」

小夜を見下ろして訊く。
慌ててコートを手に取った小夜が、威勢よく返事をした。

朱里も自分のコートを羽織って、外扉へと向かう。

きっと外は相当寒いに違いない。
遠い山々の峰が白く染まっているのが、窓の向こうに見えた。

襟元を固く引き結んで、朱里が扉の把手に手をかけたときだった。


「──私が凍え死んだらサクのせいだからね!」


やたら大きな声と共に、扉が勢いよく外に開け放たれた。

途端に冷たい外気が朱里の頬を撫でていく。

目を丸くする朱里の前に立っていたのは、昨夜颯爽と走り去っていった例の二人組だった。



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