うつむけられた頭は、一心にテーブル上に広げられた厚手の本の文面に集中しているようだ。
すぐ後ろに小夜が立っているのに、気付く気配もない。
食堂内をぼんやり照らしていた灯りの正体は、このテーブルに置かれたランタンの炎のようだった。
ランタンの灯りが人物の銀色の髪の毛を煌めかせ、背中の輪郭をうっすらと縁取る。
小夜は無言でその背中を見つめていた。
(…私よりずっと、大きな背中…)
改めて感じる自分の体との違いに、感じたことのない軽い動揺すら覚えてしまう。
(…触ったら、温かいのでしょうか)
小夜は躊躇いつつ、そっと手を前に伸ばした。
鼓動が高鳴る。
あと少し。
あとちょっと…。
ついにその広い背中に触れたと思った瞬間、人物が勢いよくこちらを振り返った。
驚きを隠そうともしない朱里は、目を大きく見開いたまま、小夜の顔を凝視していた。
「な、な…」
相当びっくりしたらしく、なかなか言葉が出てこないようだ。
「何…してるんだ、お前…」
ようやく出てきた朱里の問いに、小夜は我に返る。
前に伸ばしたままの手を慌てて後ろに引っ込めると、小夜は誤魔化すように照れ笑いを浮かべて小さく首を振った。
「い、いえ!何されてるのかな、と思いまして。今日はすごく早起きなんですね」
「あ、ああ、まあな…。ていうか、お前もなんでこんなに起きるの早いんだ?コート持って…どこか行くつもりだったのか?」
小夜の腕にかかったコートをちらりと一瞥し、朱里が怪訝そうな視線を小夜の顔に投げかける。
「あ、えと…ちょっとお散歩に…」
途端に小声になる小夜に、朱里が眉根を寄せた。
「はあ?散歩?こんな暗い中をか?」
食堂に並んだ窓の向こうは、まだ薄闇に覆われたままだ。
それを確かめた朱里が、再度小夜の顔をじっと見上げてきた。
「まさか、一人で行くつもりだったとか?」
わずかに朱里の顔色が剣呑なものに変わる。
それに気付いて、小夜は慌てて言い繕う。
「でも、ちょっと宿の外で綺麗な空気を吸おうと思っただけですから!決して遠くに行ったりはしませんですよっ」
とっさについてしまった嘘に後悔しながら、小夜は朱里の反応を待つ。
朱里は「そうか」とだけ呟いて、あっさり小夜に背を向けてしまった。
頬杖をつき、再び本を読む体勢に入る。
…怒らせてしまったのだろうか?
「…朱里さん?」
小夜はおそるおそる朱里の横顔をのぞきこんでみた。
すると、本に視線を落としたままの朱里が、指だけで隣の席を指し示した。
「あ、え?」
どうすればいいのか戸惑う小夜に、朱里がちらりと横目を向ける。
「そこ座れよ。まあ、ここにいたくないってんなら無理にとは言わないけど」
ランタンの灯りを受けて光を放つ朱里の瞳が、素っ気なく小夜から本に戻された。
「い、いえっ、座ります!ここにいさせてくださいっ!」
朱里の隣の席に、半ば滑り込むように腰を下ろした小夜の様子に、朱里が軽く笑いを吹き出した。
「ばっか、からかってやっただけだろ。何半泣きになってんだ、お前は」
くっくっと笑いをかみ殺した朱里が、隣で情けないほど顔を上気させている小夜に手を伸ばす。
そのまま紅色に染まった頬を軽くつまみ上げた。
「お前が下手くそな嘘なんかつくからだぞ」
冗談交じりに睨んでくる朱里に、頬をつままれたままの小夜は「ごめんなしゃい」と情けない声を発した。
「もうしないか?」
小夜の眼前に顔を寄せ、朱里が上目でじっと見つめてくる。
「もう俺に嘘なんかつかないって約束できるか?」
必死に首を縦に振る小夜を認めて、ようやく朱里が指を離した。
「よし。じゃあ許してやる」
楽しげに笑いかけてくる朱里に、小夜は安堵を漏らして頬を緩ませる。
だがそれも束の間。
「で?ほんとはどこに行こうとしてたわけ?」
再び襲い掛かってきた窮地に、小夜の安息の時は瞬時に、泡沫と消えたのだった。
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