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第2章
虚空の欠月
「ふあ…」
小さな欠伸をひとつこぼして、小夜はゆっくり体を起こした。
しんと静まり返った部屋の中はまだ薄暗く、夜の延長のようにすら感じさせる。
だが彼女には分かっていた。
もう夜は終わりを迎えている。
素足の裏に冷たい床の感触を受けながら、小夜は窓際に歩み寄った。
薄い絹のカーテンを引く。
夜露に濡れて曇った窓ガラスを手でこすると、そこからのぞく風景だけ鮮明に映るようになる。
小夜は顔を寄せると、じっと外の様子を眺めてみた。
まだ日の昇らない谷の早朝は、仄かな闇に包まれて静寂を保っていた。
集落を囲む長身の針葉樹林も、それを寡黙に見下ろす山の岸壁も、沈黙を守ったまま息をひそめている。
谷の朝は遅いのか、ぽつぽつと点在する家々からも、灯りは漏れていなかった。
冷気の漂う窓辺を離れると、小夜は手短に着替えを済ませ、厚手の白いコートを羽織りそのまま部屋を出る。
朱里が朝食に下りてくるまでの時間、一人で外を散歩してみるつもりだった。
今朝のように、小夜が朝早く一人で外出するということは、別段珍しいことではない。
いつの頃からか、小夜は新しい町に足を踏み入れる度に、町を散策し、目新しい風景を楽しむようになっていた。
見たことのない景色、嗅いだことのない匂い。
小夜にはそれらすべてが色鮮やかに輝いて見えた。
自分の世界が広がっていくようにすら感じられた。
小夜にとって見知らぬ土地での朝の散歩は、今では欠かせないものであり、すっかり習慣化した日課だ。
ただ朱里がそれに気付いているかどうかは別だったが。
いつものように気持ちを弾ませながら、小夜は一人階下に向かう。
昨日朱里とひととおり集落の中を歩いてみたが、自分一人で歩くのとは全くの別物だった。
たった一人で、見知らぬ土地に立ってこそ見えてくるものがあると、小夜は思っていた。
食堂を右手に通り過ぎながら、外へ続く扉に向かおうとして、小夜はふと足を止めた。
食堂にうっすらと灯りが点いているようだった。
てっきり宿の人も皆、まだ寝ているとばかり思っていたのに。
何気なく食堂の奥に目を向けた小夜は、「あ」と小さな声を漏らした。
橙色のかすかな灯りの中、奥の席のひとつに、見慣れた背中がぽつんと浮かび上がっているのを見つけたからだ。
その背中は小夜に気付くこともなく、ひたすらテーブルのほうに向けられている。
小夜はわずかに迷った後、着ていたコートを脱いでそちらへ近づいていった。