「あんな家、私だったら絶対嫌だ。朔夜だって嫌に決まってる」

だから毎晩、家を抜け出して空を見上げているのだ。

顔にも体にもたくさん痣を作って、それでも絶対痛いなんて言わない。

ただ黙って星を見つめる朔夜はいつも何を考えているのだろう。

「ほら、ぶつぶつ言ってないで、夕ご飯の支度を手伝っておくれ。今夜はお前の好きなミートスープだよ」

「うん…」

気乗りしない綺羅を急かすように、母の大きな手がぽんぽんと背中を叩く。

見上げれば優しげに微笑む母の顔。


どうしてだろう。私の家はこんなにも穏やかなのに。

なんだか罪悪感を覚えて、綺羅は母から顔を背けるように口を閉ざした。


***



「今日はあんまり喋らないんだね」

星空を見上げたまま朔夜が口を開いた。

「そうかな。…うん、そうかも」

綺羅も朔夜に顔を向けることはせず、先ほどから足元に視線を落としたままだ。

星の瞬きで空が明るいためか、綺羅の足からは背後に向けてすっと影が伸びていた。隣の朔夜も同じだ。朔夜のほうが綺羅より背が若干高い分、影も長く伸びている。

朔夜の影をぼんやり眺めていると、声をかけられた。

「あのさ」

「うん?」

曖昧な声を返す。

少しの沈黙の後、

「逃げちゃおうか、このまま」

ぽつりと朔夜がそんな言葉を漏らした。

綺羅はようやく朔夜の顔を見る。

普段は真っ直ぐに空を見つめたままの横顔が、今は綺羅のほうを向いていた。
目の下の痣とは別に、新しくこしらえられた口元の傷が目に入る。

どこか悲しげに細められた朔夜の瞳の中には、間抜けな顔の綺羅が映っていた。

「ほ、本気?」

なんとか上擦った声を発すると、朔夜が小さな笑みをこぼした。

目を瞬かせる綺羅の前で、その笑みが徐々に消えていく。

「…ごめん嘘。うん、今のは冗談だから」

最後のほうはまるで自分に言い聞かせるように。

朔夜の視線が少しずつ綺羅から逸らされて足元に注がれる。


朔夜は絶対に泣き言を口にしない。
どんなに痛いことをされても、泣かないし喚かない。

だけど今のは。


綺羅は歯を食いしばると、とっさに朔夜の両肩を掴んでいた。

足元に視線を落としていた朔夜が目を丸くして綺羅を見返す。

綺羅は真正面から朔夜の顔をじっと見つめて、頭に浮かんだ言葉を口にする。

「いいよ。逃げよう」

朔夜の瞳がわずかに揺れた気がした。

「逃げよう、朔夜」

「だめだよ、綺羅。今のは冗談だって…」

「だめじゃないし、冗談でもないよ。朔夜が逃げたいなら私は付いていく。ねえ朔夜、言って。本当のこと、本当の気持ち」

今を逃せばきっと朔夜は二度と自分の思いを口にしてくれない。それが綺羅には分かっていた。


困ったような顔でしばらく逡巡した後、朔夜は視線を足元に落としたままぽつりと呟いた。

「…逃げたい、あの家から」

「うん」

「逃げたい、この里から」

「うん。一緒に逃げよう」

自分の子どもに暴力を振るう親。里の子どもが傷ついているのを見て見ぬふりする大人。その大人たちに言われるままの子ども。

この世界は何ひとつ美しくなんてない。

だけど、今この場所だけは。

二人の間にだけはかけがえのない何かが存在しているような気がして、綺羅は心が震えるのを感じていた。





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