「トオヤ!無事でよかった!」
屋敷のホールに戻ると、父がトオヤの姿を見つけて駆け寄ってきた。
もしかしたらずっと帰りを待っていたのかもしれない。
「それで町は…城はどうなっていた?」
切迫した顔で詰め寄ってくる父に首だけ左右に振ってみせると、トオヤは淡々とした声で訊く。
「父上、母上たちはどちらに?」
「彼女たちなら二階の寝室だ。出てこないよう言っているから心配はない」
「そうですか」
静かに微笑むトオヤの指は、先ほどから剣の柄を握ったり離したりを繰り返している。
父が怪訝そうに視線を落としたときだった。
トオヤが笑みを湛えたまま口を開いた。
「この八年間、父上には様々なことを教えていただきました。剣もそのうちの一つです」
言いながら、自然な流れで剣を鞘から抜く。
銀の刃を顔の前で立てたトオヤの姿を、父は不思議そうに見つめていた。
トオヤはくすりと笑いをこぼす。
「本当に感謝しているんですよ。あなたのおかげで僕は新たな夢も持てた。だから、安心してください。必要以上の苦しみは与えません」
「ト──」
父には自分の身に何が起きたのか、理解する暇すらなかったに違いない。
トオヤが剣を横に薙いだ直後、首から鮮血を吹きながら父は膝からくずおれた。
そのまま血溜まりに顔を突っ伏して動かなくなる。
トオヤは頬に散った返り血を手の甲で拭いながら、視線を階上に巡らせた。
血を滴らせる抜き身の剣を無造作に下げたまま、迷うことなくその足は二階に向かう。
無人のホールに甲高い悲鳴が響き渡ったのは、それからすぐのことだった。
屋敷は静まり返っていた。
夫婦の寝室から始まった靴跡は、そのまま階段にべったりと赤い跡を残しながら外へ続いていた。
その場に動くものは何もない。
うっすら開いた大扉だけが、音もなく揺れているばかりだった。
火照った頬を心地よい風がかすめていく。
季節はすっかり春だ。
暖かな木漏れ日の落ちる森の小路を歩きながら、トオヤは空を見上げて目を細めた。
青く澄んだ空には、白い雲がゆったりとした速度でたゆたっていた。
こんな気分は久しぶりだった。
自分を縛るしがらみから解き放たれて、ようやく心の安寧を得た。そんな感じだ。
「まさかこんなところで日頃の努力が報われるなんてね。稽古を続けておいて本当によかった」
凝り固まった背中の筋肉をほぐすように大きく伸びをして、トオヤは遠く望む白亜の城に視線を向けた。
一瞬、炎に包まれた城が脳裏によぎって消える。
視界に映ったマーレン城は、あのときのように炎に包まれてはいない。
城をじっと見据えたまま、トオヤは小さく呟いた。
「…大丈夫。僕の夢はまだ終わっていない。これ以上誰にも奪わせるものか」
血塗られた手に握られた剣先から、ぽとりと地面に落ちた雫が紅の花を咲かせた。
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