弟の怪我は結局大したこともなく医者にかかるほどでもなかったが、過敏になった母は二度と弟に剣を握らせなかった。

「あのときは言いすぎてしまってごめんなさい」

母からの謝罪の言葉には笑顔で対応した。

あのときの態度こそがあなたの本性なのでしょうね、と心の中で蔑みながら。

一度失った信頼を取り戻すのは不可能だった。


そうなると、家にいても寒々しい気持ちになる。

これまでの満ち足りた日々が嘘のように、屋敷を包む穏やかな空気は白々しいものに変わっていった。



父にマーレン城への登城について打診してみようと思ったのは、その頃のことだ。

これ以上屋敷にいても、いいことはない気がした。
弟が成長していくにつれ、自分の居場所はどんどん失われていくに違いない。
そうなる前に早く自分の夢を叶えたかった。



執務室を訪れると、父は不在のようだった。

先日行われた王女とハンガル国王子との婚儀の後から、父は家を空けることが増えていた。

ハンガル国との間に様々な協定を結ぶいい機会らしく、おそらく今も城に赴いているのだろう。
王女と顔を合わせたことはなかったが、それでも敵国に単身嫁がねばならない身の上を思えば、多少なりとも哀れだった。


大きな本棚にぐるりと囲まれた執務室は、父の激務を物語るように分厚い本や書類が机上に散乱していた。

トオヤも城仕えを目指す身だ。
父が今どんな案件に取り組んでいるのか気になって、机の上の書類にそれとなく視線を落とす。

その中に一枚、封筒が宛名を表にした状態で置かれているのが目についた。

宛名を見た瞬間、ざわりと胸の奥が波を立てた。

そこに書かれているのは、かつてのトオヤの父の名だった。

「どうして、今さら…」

トオヤがこの屋敷に来てもう八年が経つ。
とうの昔に赤の他人になった相手だ。今さら手紙を送る必要などないだろうに。

いや、それともこれが初めてではないのか?

罪悪感を覚えながらも、トオヤは封筒の中身を開いてみた。


達筆な父の字でつらつらと書かれた文章の中で、ある箇所が目に留まる。

『トオヤがこの家を去るのは、我々夫婦にとっても寂しいことです。けれど、彼ならやっていけると信じています──』

そこまで読んだところで、背後の扉が開く音がした。


「ああ、トオヤ。こんなところでどうしたんだ?」

慌てて手紙を封筒に戻すと、トオヤは笑顔で後ろを振り返る。
少し疲れた顔つきの父が扉の前に立っていた。

「いえ、父上と久しぶりに政の談義をしたいなと思って参ったのですが、お忙しいようなのでまた日を改めます」

「悪いな。また時間が空いたら私のほうから声をかけよう」

トオヤが頭を下げて脇を通り抜けようとしたとき、父が付け加えた。

「トオヤは本当に努力を惜しまないな。その努力は必ずいい結果となってお前に返ってくる。信じているよ」

微笑む父の背丈は、いつの間にかトオヤよりも低くなっていた。

「はい」

同じように微笑んで返すと、トオヤは父に背を向けて部屋を出た。


顔から一切の表情が消える。

頭にあるのは、さっきの手紙の文面だけだった。


“トオヤがこの家を去る──”


僕が家を去る?なんだそれは?
しかも、それをなぜかつての親に報告する必要があるんだ。

歩を進める度に、視界に映る景色が無機質な色に変わっていく。

まさか父は、僕をこの家から追い出すつもりなのか。

城仕えになるという夢のため、毎日のように鍛錬に明け暮れる僕を、影で笑っていたのか。

わざわざ家から出すことをあの人にまで知らせて、みんなで僕を笑い者にしようというのか。

あいつはいつまで木の棒で遊んでいるのかと。

無駄な努力ばかりして馬鹿らしいと──。


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