「ハンガル国からの侵略によって王が倒れ、姫が国を後にされてから、一年が経ちました。その間私たちは町の復興作業に必死で、ろくに他国を気にすることもせず生きてきました。そんな折、突然隣国シルドラからの使いと名乗る者がやって来たのです」

「シルドラ…」

考え込むように小夜が唇に手を当てる。
朱里も頭の中に広げた地図で、シルドラという名の国を辿った。

今トオヤの言ったとおり、シルドラはマーレンの東隣に位置する国のはずだ。

マーレンの西隣に位置するハンガルとマーレンが完全なる内陸国なのに対し、シルドラは海に面している。

朱里の印象としては、周囲の国々の中で最も土地の豊かな大国というのが、このシルドラだった。

「今までマーレンはハンガルの存在があることで、他国からの干渉を避けることができていました。マーレンは長年ハンガルの侵略対象であり、マーレンに干渉することはそのままハンガルと敵対することを意味したからです。ですが今回の戦いでハンガル国の王、そして皇太子までもが命を落としてしまいました。ハンガルもマーレンと時を同じくして、王の不在により国内は半ば崩壊状態だと聞きます。そしてその瞬間からマーレンを守っていた盾は失われたのです。私たち国民はこの事実に気づくのが遅すぎた。気づいたときには、シルドラからの干渉を許していたのですから…」

心底悔しそうにトオヤの眉が歪められた。

「今マーレンを支配しているのは、シルドラの若き国王です。再建の助力に始まり、いつの間にかシルドラはマーレンの核心にまで根を張ってきています。このままではマーレンは遠くない未来、王の不在を理由にシルドラの領土下に置かれてしまうでしょう」

「…今マーレンに正当な王位後継者が現れれば、その未来はまだ変えることができるのですか?」

小夜の口から静かに発された言葉に、朱里の心臓が大きく跳ねた。

小夜の横顔はじっとトオヤに向けられたまま、朱里を見ることはない。

「ええ。今ならまだ間に合います。姫が王位に就くことで、シルドラからの干渉は少なからず減るはずです」

「そうですか…」

再度小夜は押し黙り、そのまま一人思案する体勢に入った。

その頭の中からは、朱里の存在などすっかり消え去っているに違いない。


不思議だった。

こんなに肩が触れ合うほど近くにいるはずなのに、小夜との距離があまりに遠い。


そのまま車内は再び沈黙に包まれた。


ぼんやり窓の外に顔を向けると、いつの間にかそこには見覚えのある森の緑が広がっていた。

戻ってきたのだ。
小夜の故郷に──。





馬車は町に入る門前で一時動きを止めた。

守衛が窓から中を覗いて、トオヤに一礼した。
その動きは、視界に小夜が入った途端、石のようにぴたりと固まったまま動かなくなる。

口をあんぐりと開けたまま、守衛は信じられないという顔で小夜を凝視していたが、小夜が頭を下げると目元を潤ませて頭を垂れた。

「──姫のご帰還、心よりお待ち申しておりました!」

そのときの小夜がどんな顔をしていたのか、朱里からは見ることがかなわなかった。

頭を下げたままの守衛を残して、再び馬車は動き出した。



店の立ち並ぶ賑やかな通りを避けて馬車は進む。

特に会話もないまま、気づけば町外れまで来ていた。

人家もなく人の気配もない静かな小路に、ただ馬の蹄と車輪の転がる音だけが響き渡っている。


こんなところまで連れてきて、この男は何がしたいんだろう。

朱里がトオヤに疑惑の目を向けたときだった。

「ようやく着いたようですね」

トオヤが窓の向こうを見やって、安堵したように笑みをこぼした。
朱里と小夜もその視線の先を追う。

「あれは…」

久しぶりに発された小夜の声に応えるように、朱里は小さく頷きを返した。

周りを木々に囲まれた小路を抜けた先に、突如一軒の大きな屋敷が姿を現していた。


朱里は思わず閉口した。

空を覆うように自分たちを見下ろす屋敷が、そのときなぜだか一匹の巨大な生き物に見えたからだ。

抗う術もないまま、朱里たちを乗せた馬車は、屋敷の生んだ濃い影の中に呑み込まれていくのだった。




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