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第1章
始まりの町
「──小夜」
朱里の突然の登場を予想もしていなかったのだろう、小夜は驚きの表情で、隣に並んだ朱里の顔を見上げてきた。
小夜の前に佇んでいた金髪の男が、口元に微笑みを湛えたまま朱里に視線を向ける。
「君は?」
まだ男盛りには到底達していない、どこか幼さの残る顔だ。
朱里よりも少し年上だろうか。
どことなく育ちがよさそうな所作と出で立ちをしている。
もしかしたら貴族の出なのかもしれない。
「まずはそっちが何者なのか答えるのが先だろ」
どうしても突き返すような言い方になってしまうのは、今の朱里に余裕がないせいだろうか。
朱里からすれば、この男は小夜を奪い返しに来た者だ。
小夜の進む道を邪魔せず見守っていこうとは決めたが、やはりその心中は穏やかであるはずがない。
朱里の敵意を剥き出しにした物言いにも気を留める様子もなく、男はあっさりと自分の名を名乗った。
「申し遅れました。小夜様には先ほどご挨拶申し上げたのですが、私はトオヤと申します。以後、お見知りおきを」
ゆったりと一礼する動作はずいぶんとこなれたものだった。
日差しを浴びて蜂蜜色に染まった癖のある髪の毛を揺らし微笑む男に、朱里はなぜだか胸の奥がざわつくのを感じた。
理由があるわけではない。
ただ予感だけがする。
これから何か大きな出来事が起こる。
そしてそれは、自分ではとても対処できないほどの巨大さを以て、周囲のあらゆるもの全てを飲み込んでいくのだ。
いつの間にか背中には嫌な汗をかいていた。
「…俺は朱里。こいつの相棒だ」
自ずと警戒の視線を向けつつ名乗る朱里に、トオヤは「そうですか」と返した後、思い出したように付け加えた。
「ああ、あなたが噂の」
「噂?」
「いえ、小夜様がいなくなった直後に、町で面白い話を聞いたものですから」
どんな噂だ、とは聞く気にならなかった。
以前、紫音から同じような話を聞いていたからだ。
姫と共にいるのは美形の貴族だとか、確かそんなことを言っていたと思う。
要するに、現実とは大きくかけ離れているのだ。
朱里にとっては迷惑この上ない話だった。
この話題を続ける気にはなれず、そっぽを向いた朱里の気持ちを慮ったのか、トオヤはそれ以上話を広げることはしなかった。
「──ご存知ですか?」
代わりに、突然質問を投げかけてきた。
それが小夜に向けられたものだと気づいたときには、トオヤは先を続けていた。
「今のマーレン国は危機的な状況下にあります。その理由は国を統べる者の喪失、つまりあなたの不在が原因なのです。小夜様」
隣に立つ小夜の肩がわずかに震えたのが視界に入った。
その横顔は強張っている。
「どうか一度、国にお戻りいただけませんか。これはマーレンに暮らす全ての民の願いでもあります」
語尾を強めて言うトオヤに、小夜は何か答えようとして口を開いた。
だが、肝心の言葉は出てこない。
迷っているのだということは、すぐに分かった。
小夜は逡巡するように何度か目を瞬くと、恐々といったふうにトオヤを見た。
「…マーレンで何が起こっているんですか」
「ここでは申し上げられません。詳細は中でお話させていただきます」
あらかじめ小夜の問いを予測していたのか、トオヤは即答すると背後の馬車を手で示した。
主人の声に応えるように、艶やかな毛並みを持った二頭の馬が嘶いた。
「この馬車はあなたの?」
「ええ。姫に国まで歩いていただくわけにはまいりませんから」
うっすらと笑みを返すトオヤに、朱里は改めて得体の知れない何かを感じた。
この男は一体、何者なんだろう。
「小夜様、私と一緒に来ていただけますね」
戸惑うように小夜が朱里の顔を見上げてくる。
不安そうな瞳が窺うように揺れているのを見て、朱里は顔を背けた。
「お前の好きなようにしろよ」
小夜の邪魔はしないと決めた。
だがそれでも心は複雑だ。
思わず視線を逸らしてしまったことを後悔していると、ふいに何かが服の袖を引っ張った。小夜だ。
「朱里さんは…?」
「…ついてくに決まってんだろ」
まるで迷子のように心細げに見上げられれば、そう答えるしかない。
それに、小夜が自分を寄り所としてくれているのが内心嬉しくもあった。
ほっと安堵の色を覗かせる小夜の頭を、朱里は軽くぽんぽんと叩いてやった。