「二人とも、ありがとうございます。でも本来この城はこういう場所だったんです。父様がいて城に仕える方々がいて、町のみんなも自由に出入りできる、そんな賑やかで明るい場所だったんです。だから今日は昔に戻ったみたいで、すごく嬉しくて。トオヤさんのご心配も分かりますが、どうか私のわがままを許していただけませんか?」
微笑みかけると、トオヤは渋々ながら頷きを返した。
「…それで姫がよろしいのなら」
小夜の隣でライラがガッツポーズを取る。
「やりましたね、小夜様!これで明日からもずっと美味しいごはんにありつけますよ!」
「…ライラ、まさかそのために姫をかばったの…?」
トオヤの発した低い声音に、ライラが慌てて手で口を覆う。
そうしているうちに、時間は緩やかに過ぎていった。
「まずは各地の諸侯に姫が戻ったことを知らせる書状を送ったほうがいいでしょうね。皆、国の動きを気にしているはずですから」
トオヤからの助言を受け、小夜は大きく頷いた。
二人は今、城の執務室にいた。
ライラは部屋の掃除があるからと慌ただしく去っていって以来、顔を合わせていない。
部屋の奥に設けられた執務机について、小夜は先ほどから必死に手を動かしている。
トオヤは中央のソファに浅く腰かけて、そんな小夜を心配そうに見守っていた。
「小夜様、よろしければ私も微力ながらお手伝いしましょうか?書くだけでも相当な数になりますし」
「いいえ、大丈夫です。これは私がやらなきゃいけないことですから」
机に向かったままそう答える小夜に、トオヤは小さくため息をつく。
「どうか、あまりご無理をせずに」
その後トオヤが退出したのにも気づかずに、小夜は机上の紙にペンを走らせ続けた。
数刻後、小夜は息をついて顔を上げた。
完成した書状はまだ数えるほどしかない。
椅子の背にもたれて、ぼんやりと執務室を見渡す。
ここに入ったのはこれで二度目だった。
一度目は先王が存命の頃。
小夜がまだ幼い頃のことだった。
なかなか寝つけず不安になって、幼い小夜は父を探して夜の城内を彷徨った。
そしてこの部屋に行き着いたのだ。
細い灯りの漏れる扉をそっと押すと、そこには今の小夜のように執務机について仕事をする父の姿があった。
幼い小夜は父に声をかけようとして、すぐに思い留まった。
父が悩ましげに頭を抱えて深い息をついたからだ。
幼心にも父の邪魔をしてはいけないと分かって、小夜は一人来た道を引き返し、ベッドに潜り込んで朝を待った。
この部屋に入るのはあのとき以来だ。
あの頃はハンガルとの戦争を終えて間もなかった。
父の悩みは尽きなかったに違いない。
この部屋にいると、あの夜の辛そうな父の顔が浮かんで、少し悲しくなる。
昔を思い出して手を止めていた小夜は、ふと我に返って首を横に振った。
いけない。
思い出に浸ってる暇なんてないのに。
再び机に向き直ったところで、部屋の扉がノックされる音が響いた。
「はい?」
少しだけ開いた扉の隙間からひょっこり顔を覗かせたのはライラだった。
「小夜様、少し休憩にしません?」
言って、盆に乗せたクッキーを掲げてみせる。
小夜は笑みをこぼして、ライラの素敵な提案に乗ることにした。
のだが。
「えっ!小夜様、何ですそれ?」
驚くライラの視線は小夜の足元に注がれている。
「あ、ええと…つい…」
ドレスにブーツという不思議な格好で、小夜は誤魔化し笑いを漏らした。
言うまでもなくこのブーツ、小夜が旅の間愛用していたものである。
だいぶ傷もついているが、ヒールもほとんどなく何より歩きやすいため、捨てることなくクローゼットにしまってあったのを引っ張り出してきたのだ。
「どうしてそれチョイスしちゃうんですか…!もっと素敵な靴いっぱいあるのに!」
「…ごめんなさい。ヒールだとこけちゃいそうで怖くて」
小夜の言うとおり、クローゼットに置かれた靴はどれもヒールの高いものばかりだった。
ただでさえ何もないところで転んでしまう小夜だ。
ヒールを履いた日には、目も当てられない結末が見えている。
しゅんと肩を落とした小夜に、ライラはしばし考える仕草をした後、よおしと鼻を鳴らして小夜に顔を寄せてきた。
「ちょっとだけ私に、小夜様の時間をくださいな」