夢でも見ているのかと思うほど、それは心が満たされる日々だった。

困ったように笑いかけてくる顔。
不器用に頭を撫でてくれる優しい手。
大丈夫だと包み込んでくれる温かな胸。
何者からも守ってくれようとする広い背中。

そのすべてが愛しくてたまらなかった。

胸の奥から切なさが込み上げてくる。

それが喉から溢れ出そうになって、小夜は強く唇を噛み締めた。

ここで彼の面影に甘えてどうする。

大きく息を吐き出して自分の中から彼の姿を追い出すと、小夜は改めて聴衆に視線を向けた。

「でも、ふとしたときに気づいたんです。今の自分の幸せは、たくさんのものを犠牲にして得たものなんだって。私の自由の礎を築いているのは、この町なんだって。そう思うと怖くなりました。どれだけ遠くに離れても、笑顔で誤魔化していても、それは現実から逃げているだけなんだと、そう思うようになりました」

思えば、小夜は幾度となく願いを口にしていた。

側にいさせてくださいと。

けれどそれは、決して純粋なものではなかった。

美しい響きで装っていただけで、本当は自分の中に潜む罪悪感を払拭したくて、必死にすがった結果の言葉だった。


聴衆は変わらず小夜に視線を寄せている。

ふと、この人たちはどんな思いで、こんな独りよがりの演説を聞いているのだろうという思いが浮かんだ。

これはまるで懺悔のようだ。
自分は救われたいがために、この人たちを利用しているだけなのではないだろうか。

急に自分のしていることが悪趣味に思えてきて、小夜は口をつぐむ。


私は一体何がしたくてここに立ってるんだっけ。


思った途端、目の前の世界がぐにゃりと歪んだ。

足裏の感触が、急に柔らかな綿のそれに変わる。
全身から汗が吹き出るのが分かった。

どうしたことか何も言葉が出てこない。

何をどう伝えたかったのか、混乱した頭で考えても答えは一向に見つからない。

小夜は頭の中が、言葉どおり真っ白になるのを感じて後退りをした。

もう無理だ。

頭の上で自分が叫ぶ。

ここから逃げ出したい。
このまま、あらゆる責任から逃げてしまいたい。

聴衆の視線を避けるように、うつむいて瞼を固く閉じたときだった。


「──小夜様」


暗闇の向こうで、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

恐る恐る開いた瞳の後ろで誰かがもう一度自分を呼ぶ。

「小夜様」

ゆるゆると顔を向けると、すぐ後ろにトオヤの姿があった。

小夜の異変に気付いて壇上に上がってきたのだろう。

トオヤはいつものように静かに微笑むと、そっと小夜の背中に手を添えて言った。

「大丈夫。怖いことなんて何もないです。だから大丈夫」

それは普段とは異なる、親しみのこもった物言いだった。

大丈夫と繰り返しながら、トオヤは小夜の背中をぽんぽんと撫でてくれた。

いつの間にか足の震えが治まっていることに気づいて、小夜はトオヤを見上げる。

「うん。もう大丈夫」

笑って、最後にもう一度背中を軽く押してトオヤは小夜を送り出した。

「行ってらっしゃい」

背中に感じていた温もりが遠のいていく。


不思議なことに、あんなに押し潰されそうだった緊張感が幾分か和らいでいた。
わずかに感じるその名残すら心地よく思える。

顔を前に転じると、開けた視界いっぱいに自分を待つ民の姿があった。

彼らは今の間も、口を挟むことなく小夜を待ってくれているようだった。

小夜は自分が犯しかけた過ちに気づく。

また私はこの人たちを傷つけるところだった。

地をしっかりと踏みしめる感触を確かめながら、小夜は真っ直ぐに民の視線を受け止める。

もう大丈夫。
逃げたりしない。

私の思いをこの人たちに伝えよう。



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