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第3章
王女の帰還
何があろうとも朝は必ずやって来る。
ベッドの上に半身を起こして、小夜は朝日の差し込む窓の外に顔を向けた。
空は青く澄んでいて、今日も一日快晴だと告げていた。
夜通し泣いて腫れぼったくなった瞼を軽く擦って、小夜は無言のままベッドから下りる。
頭の中は膜が張ったようにおぼろげで、どこか夢の中にいるような感覚だった。
今日は何をするんだったっけ。
惰性で寝間着を着替え、部屋を出る。
扉を押したときに違和感を覚えてその裏側を覗いてみると、見覚えのある紙袋が床に置かれてあった。
しゃがみ込んで中を覗き込む。
昨夜は詰まっていたはずの中身が、今は少しだけ減っているようだった。
食べてくれたんだ。
パンをかじる彼の姿を想像して、小夜は自然と微笑みを浮かべていた。
胸が温かくなる感覚に背を押されるように、隣の部屋の前に歩み寄る。
せめて、おはようの挨拶だけでも。
そう願って開いた扉の先には、しかし誰の姿もなかった。
旅の荷物も、普段羽織っている愛用のコートも、何もない。
彼のために懸命に浮かべた笑顔は、届く場所を失って緩やかに消えていった。
階段を下りると、ちょうどトオヤが外に続く大扉から中に戻ってきたところだった。
まだ早朝だというのに、シャツは肘の辺りまでまくられ、何かひと仕事終えた後の雰囲気を纏わせている。
トオヤは小夜の姿に気づくと、柔らかな笑顔を向けてきた。
「ああ、小夜様。おはようございます。昨夜はよくお眠りになられましたか?」
それに小さく頷いて、小夜は周囲を見回した。
ホールには小夜とトオヤのほかは誰もいない。
眠たそうに欠伸をしながら、見慣れた姿がふらりと現れることも、もちろんなかった。
「彼なら」
小夜の揺れる視線に気づいたトオヤが、大扉のほうを振り返りながら言った。
「先ほど旅立たれましたよ。小夜様によろしくと」
そこにいるはずのない彼が、背を向けて扉の向こうへ去っていくのを目で追いながら、小夜は視界が急速に色を失くしていくのを感じていた。
「そうですか…」
どこか他人事のように、彼女はそう返事をした。
城に戻るのは一年ぶりのことだった。
なんだかもっと長い間城を空けていたような気もしたが、考えてみれば、それはほんのわずかな時間でしかなかった。
トオヤと共に城門をくぐりながら、小夜は復興の進んだ城を見上げて胸が締めつけられるのを感じた。
人生のほとんどを過ごした城が、そこにはあった。
破壊される前と寸分違わぬ姿で、小夜を出迎えてくれていた。
「町の者たちと協力して、城の再建は何より優先して進めたんですよ。いつ小夜様がお戻りになってもいいように」
トオヤの言葉のとおり、城の再建はすでに完了しているように見えた。
生き残った町の者が総出で力を貸してくれたのが容易に想像できて、小夜は感情が溢れ出そうになる唇を強く引き結んだ。
どう返すのが正しいのか、答えに窮する小夜の背中に、トオヤの手がそっと添えられる。
まるですべて見通しているというように、トオヤは穏やかな微笑みを向けてきた。
警備兵のいない無人の外扉を抜けると、馴染みのホールが無言で小夜の帰城を受け入れてくれた。
だが、不思議だった。
記憶の中の姿そのままなのに、城は小夜が知っているよりずっと寡黙で冷たい空気に覆われていた。
ああ、そうだ、と小夜は気づく。
人がいないのだ。
そういえば城門を抜けてから今まで、誰ともすれ違うどころか人影さえ目にしていない。
かつてのマーレン城といえば、侍女や大臣、商人など多くの人が行き来しているのが当たり前だったのに。
しんと静まり返ったわが家はどこかよそよそしく、まるで見知らぬ他人の家のようだった。
ホールに入った直後になぜか足を止めたトオヤに倣って、小夜も隣で辺りを見回す。
明かり取りのためにホールをぐるりと囲んだ高窓からは、春の陽気を感じさせる暖かな日差しが降り注いでいたが、それも今の小夜にはどこか白々しく感じられて顔を背けた。