パタパタと賑やかな足音を響かせて侍女のライラが姿を現したのは、アールがホールの高窓から降り注ぐ日差しに目をすがめたときだった。
「アール様、こんにちは!」
笑顔でアールの元に駆け寄ってきたライラの腕には、大きなシーツが抱えられていた。どうやら洗濯の最中だったらしい。
「ライラ、こんにちは」
笑顔で返すと、アールは自然な手つきでライラの手からシーツを取った。
「これ干すんだよね?屋上?」
そのまま歩き出したアールの後に続いて、慌てた様子のライラが追いかけてくる。
「だめだめ!いいですって!」
「平気だよ。今は王として正式な訪問で来てるわけじゃないんだし」
「でもっ…」
恐縮するライラに軽く笑ってみせる。
「僕も力になりたいんだよ」
その言葉の意味を汲み取ってくれたのか、ライラの口が渋々閉じられた。
ライラの前を歩きながら、アールの顔がわずかに曇る。
今ほど自分の無力さを呪ったことはない。
腕に抱えたシーツを見下ろして、その口から息が漏れた。
腹をくくってこの地位に就いたのも、すべては大切な者を守るためのはずだった。
それなのに目の前でユウリは命を奪われ、小夜は笑顔を失った。
結局自分は失ってばかりで何一つ守れていない。それが事実だ。
あの日を境に、小夜の心は彼に捕らわれ続けている。誰がどんな言葉をかけても、彼女には届かない。
こんなとき朱里だったらどうするだろうか。
彼なら簡単に小夜の殻を破り、頭を撫ででもすれば失った笑顔を取り戻すのだろう。
再びため息が漏れた。
考えても仕方がないことだ。自分は朱里にはなれない。今はどんなに非力でも、できることをするしかないではないか。
おそらく後ろを歩くライラも同じ思いに違いない。
だからこそ小夜が姿を見せなくなってからも、懸命に笑顔で働いているのだろう。
彼女だけではない。廊下から横目に見えた厨房では、シェフ姿の男が忙しそうに動き回っていたし、警備の男たちの巡回ともすれ違った。
皆小夜の帰りを信じて自分の役割を全うしているのだ。
屋上へと続く螺旋階段を上りながら、アールは小夜に思いを馳せる。
カーテンを閉め切った暗い自室の中、小夜は今もなお悲しみに暮れているのだろうか。世界は無慈悲だと、一人嘆いているのだろうか。
願わくは、気づいてほしい。彼女を待っている者がここにいることに。
彼女を取り巻く世界は、決して暗く悲しいばかりではないのだと思い出してほしい。
いつか小夜が、己を見失っていたアールの道に光を灯してくれたときのように。
屋上へと抜ける重い扉を開くと、視界一面に真っ青な空が飛び込んできた。
世界はこんなにも美しいのだと、アールに教えてくれたのは小夜なのだから。
薄暗い室内に筋のように伸びた陽光に気づいて、小夜はカーテンを固く閉ざした。
今はこの向こう側に広がる景色を見る気になれなかった。
こうして自室に閉じこもってから、もうどのくらい経ったのだろう。月日どころか時間の感覚すらあまりない。
外の世界から完全に遮断された室内は、しんと静まり返っていた。
小夜は無言のまま、部屋の奥のベッドに歩み寄る。
そこには朱里が横たわっていた。
意識はない。あの日からずっと、彼のまぶたは固く閉ざされたままだ。
あの後、倒れた朱里に処置を施した医者は言った。
一命は取りとめました。安心してください。回復し次第、いずれ目を覚ますでしょう。
そのいずれを、小夜は来る日も来る日も待ち続けた。
そうして気づけば季節は変わっていた。
ベッドの傍らに腰かけても、朱里が目を覚ます気配はない。
それでも構わず小夜は微笑みかける。
「空気が少しずつ暖かくなってきましたね。そうだ、朱里さん。目が覚めたら、一緒に海に行きませんか?あのときの約束、叶えさせてください」
もちろん返事はない。そもそも答えを望んでもいない。
独り言のように小夜は一人、笑って話し続ける。
「シルドラにすごく綺麗な海があるんです。夕方になると水面も空も目に映るもの全部オレンジ色に染まって…」
言葉に詰まったのは、シルドラ城の渡り廊下から見た光景を思い出し、一人きりで泣いていた自分に思い当たったからだった。