心臓がうるさいくらいに早鐘を打っていた。
気持ちが急いて転びそうになるのを必死に耐えて駆けていく。
視界の中心には、はっきりと相棒の姿が映っていた。
夢でも幻でもない。確かに、すぐ先に彼がいる。
目の奥が熱くなって涙でぼやけるのを何度も手の甲で拭って、小夜は相棒の名前を口にした。
「朱里さんっ」
自分で呼んだ名前に、また涙がこぼれそうになる。
こんなふうに名前を呼べることが、どれほど幸せなことか。
自分と同じ世界に彼がいてくれることが、どんなに奇跡的なことか。
ライラの肩を借りて立っていた朱里が、小夜に気づいて一人で足を踏み出すのが見えた。
小夜はもう一度涙を拭って両手を伸ばす。
このまま胸に飛び込んで、思いっきり背中に腕を回して、力いっぱい彼を抱き締めたい。
涙でボロボロの顔だって構わない。
彼ならきっと、笑って鼻水ですら拭ってくれるはずだから。
愛しい人に向かって大きく伸ばした手は、しかし何に触れることもなく空を切った。
小夜の脇をすり抜けて、朱里の体が前のめりに傾いていく。
足元でどさり、と鈍い音が響いたのはその直後だった。
ゆっくり視線を落とすと、朱里は小夜の足元に横たわっていた。
「…朱里さん…?」
間の抜けた声をかけて、側に膝をつき顔を覗き込む。眠っているのか、そのまぶたは固く閉ざされていた。
唖然とその顔を見守る小夜の背後で、ライラが駆け出していく。
「私、お医者様を呼んできますっ…!」
その言葉の意味するところが分からなくて戸惑っていると、群衆の中に飛び込んでいったライラから怒声に近い声が響いた。
「誰か!お医者様はいませんか!」
その後に続く言葉は、小夜にはあまりに予想外で残酷なものだった。
「怪我をしてる人がいるんです!お腹を刺されてるんですっ…!」
思わず息が止まった。
まさか、そんなはずないと言い聞かせながら、眼前に横たわる朱里の腹部におそるおそる手を伸ばす。
だって、ついさっきまで笑っていたのに。話だって。
「……っ」
指先が冷たく濡れたシャツに触れた瞬間、背筋が凍りついた。
全身の皮膚が粟立つ感覚に、ぶるりと体が震える。
絞れるほどびしょびしょに重く濡れそぼったシャツ。
震える手でそれをめくり上げると、その下の肌は元の色が分からないほど赤黒く濡れていた。
ライラの言葉を裏づけるかのように、脇腹には決して小さくない傷が血を流しながら刻まれていた。
何も声が出なかった。頭がうまく回らない。
遠く聞こえるライラの医者を探す声に我に返り、出血を止めようと患部を両手で押さえてみたが、意味があるのかどうかさえ考えることもできなかった。
見る間に両手が朱里の血で染まっていく。
「朱里さんっ…」
呼びかけても反応のない朱里の顔は恐ろしく真っ白で、投げ出された手も力なくそこに横たわったまま動かない。
地面に広がっていく血溜まりが、小夜に残酷な現実を突きつけてくる。
「朱里さん、起きてください…!」
抗うように朱里の体を揺するが、状況は何も変わらない。
まるで同じだった。
父と母を亡くしたときも、小夜はいつもそこにいた。
すぐ側で泣いてすがって、大事な人の命が失われていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
今もそうだ。
朱里の命が流れ落ちていくのを、隣で眺めていることしかできない。
また、私は同じことを繰り返すんだろうか。
すがる先を求めるように、血まみれの震える手を朱里の手の平に重ねる。
今まで何度こうしてこの手に触れてきただろう。
手を繋ぎ、肩を並べ、そうして見上げた横顔はいつもどこか気恥ずかしそうで。
触れた手の平から伝わる優しい温もりが、小夜は好きだった。
それが今はこんなにも冷たい。
手首から指の先までどこを探しても、懐かしい温もりが見つからない。
小夜の愛した朱里の気配が消えていく。
172/178