おかしい。
今ユウリが伝えるべきことは、自分を死に追いやった兄への恨み言だけのはずだ。
どうして自分がこんなところで死ななければならないのかと、死ぬべきはお前のはずなのにと、呪いの言葉を浴びせかける以外にはないはずだ。
それなのになぜこの弟は、こんな兄に謝り続けるのか。
こんな、どうしようもない恥ずべき兄に。
気づけばユウリの声は聞こえなくなっていた。
頬に涙の跡を残したまま目を閉ざした弟の顔に、遠い昔の記憶が甦る。
目の裏側でこちらを見上げる小さな弟は、頭を撫でると顔をくしゃくしゃにして無邪気に笑った。
シルドラ王の側近の男が数人の警備を連れてトオヤを拘束したのは、彼が動かなくなった弟の亡骸を呆然と見つめているときだった。
「あなたを一旦地下牢へ幽閉します」
そんなことを言っていたように思うが、トオヤにはどうでもいいことだった。今さら自分の行く末なんて興味はない。
胸の前で両手に枷をはめられ、警備の後について歩き出す。
見上げた白亜の城も、夢から覚めてみればただの建造物に過ぎなかった。
冷めた気分で弟の側に佇むアールの後ろを通り過ぎようとしたとき、ふいにその背中が問いかけてきた。
「…君、本当はこの子を殺すつもりなんてなかったんだろ」
思わず笑って返す。
「なぜ?」
振り返ったアールは、じっとトオヤの顔を見つめた後で静かに答えた。
「だって、君…さっきからずっと泣いてるじゃないか」
え、と呟いた瞬間、枷のはまった両手に、ぽたりと滴が落ちた。
頬を伝っていく熱に、そのとき初めて気づく。
僕が、涙?どうして?
答えは、胸の内に生まれた喪失感を思えば明らかだった。
なんて皮肉なことか。
自分が真に夢見ていたものが何なのか、弟を手にかけた後で思い出すなんて。
どれだけ悔いても、もうユウリは帰ってこないのに。
少年の側に立ち尽くすアールの姿は、壇上の小夜からは背中しか見えなかった。
アールは今どんな気持ちで、少年の亡骸と対面しているのだろう。
アールと少年との関係は小夜も知らない。だが、少年がトオヤに傷つけられたのを見たアールの横顔は、小夜がずっと昔、母が殺されたとき目にした彼の顔とまったく同じだった。
アールは本当に優しい人だ。
だからこそ弱者を守るために何の躊躇いもなく剣を振るう。
さっきも小夜が止めていなければ、間違いなく少年の目の前で兄を斬っていただろう。
小夜は自分と同じように少年が肉親を失って傷つくのも、アールの手がこれ以上血で汚れてしまうのも嫌だった。
足元で息絶えた少年を前に、首をうつむけたアールの背中は泣いているように見えた。
「アール…」
戸惑いながら彼の元へ歩み寄ろうとした小夜の前に、そのとき横から腕が伸びてきた。
「やめておけ。今お前にできることは何もない」
見上げれば、ロキがアールに視線を留めたまま、小夜の動きを制止していた。
「でも…」
「今お前を必要としているのはあいつじゃない。ずっと、お前が目覚めるのを待っていた奴がいる。馬鹿みたいに本を読み漁って、お前を目覚めさせる方法を必死に探していた奴が」
ロキの言葉が誰のことを指しているのか、小夜にはすぐに分かった。
その光景が頭に浮かんで、思わず胸が震える。
小夜の背中を押すように、ロキが穏やかな声音で告げた。
「行ってやれ」
見上げた先には、海を想起させる青い瞳が優しくこちらに笑いかけていた。
何も心配はいらない、とその目が語るのを前に、小夜は大きく一礼する。
身を翻すと、今度こそ彼女は駆け出した。