思ったよりずっと近くにユウリは立っていた。
ぽかんと不思議そうな顔で、自身の喉元を押さえて。

おそらくトオヤ自身、ユウリと似たような顔をしていたに違いない。状況が理解できていないのは、トオヤも同じだった。


ユウリが何事かを喋ろうとして開いた口から、ごぽりと水音がして鮮血があふれ出した。
慌てて口を押さえようと喉元から手を外した途端、そこから噴き出した血が彼の着ていたシャツの前を真っ赤に染めていく。


弟の変わり果てた姿に、トオヤは呆然と立ち尽くしていた。

ふと目の端に、手に握られたままのナイフが映り込む。

知らぬ間に赤く塗れたそれは、ちょうど目の前でくずおれていくユウリの血と同じ色をしていた。



「──アール!」


どこかから誰かの叫ぶ声が聞こえて顔を上げると、壇上から一人の男が飛び降りてくるのが見えた。

確か以前はやたらと柔和な顔をした男だったという記憶があるが、今トオヤの眼前に立つ男にはその面影は微塵もない。

冷たく見下ろす瞳の奥にほとばしる殺意を湛えて、男は無言で腰の鞘から剣を引き抜いた。

トオヤの頭上に振り上げられたそれを、どこか他人事のように見上げる。


どうやら自分はここで終わるらしい。

抵抗する気はもはやなかった。

所詮この身はどこまでも呪われている。
あのとき、城を追われて逃げ出した幼い日の夜からずっと、覚めない悪夢を見ている気分だった。

家族に捨てられ、居場所を失い、未来すら暗闇の中。
呪われた運命に必死で抗ってはみたものの、結局この手で何かを掴むことはできなかった。

思えば、自分は何のためにここまで一人戦ってきたんだろう。

貴族らしい生き方をするため?
かつての輝かしい生活を取り戻すため?

夢を思い描くとき脳裏に甦るのは決まって、赤い屋根の城で家族と笑い合う景色だった。

もしかしたらあの頃が、トオヤにとっては一番幸せな時間だったのかもしれない。


自分に向かって振り下ろされた剣に、トオヤが目を閉じたときだった。


「アール!これ以上その子を傷つけては駄目ですっ…!」


男の後ろから姫の叫ぶ声が聞こえた。

まぶたを開いた先で、剣がぴたりと動きを止める。

男が逡巡しているのは、目を見れば明らかだった。
ユウリとトオヤの間を視線がせわしなく動く。

男は最後にユウリのほうをじっと見つめた後、悔しげに顔を歪めて剣を鞘に収めた。

そのままトオヤの胸倉を乱暴に掴み上げる。眼前に男の怒りを帯びた顔が迫った。

「何が貴族だ…!お前は形のないものに囚われて、一番大事なものを見失ってるだけだ!お前の親はみっともなくなんてない!身分や立場より、現実を見据えて我が子を守ることを優先した、親として誇らしい行動だ!この子だって、どれほど勇気を出して罪の下ったお前に手を差し伸べたと思ってる!…そんなことも分からないお前のほうが、よほど愚かで醜いと知れ!」

そう声を荒げる男の目にはうっすらと涙が溜まっていた。


どうしてこの男がこんな傷ついた顔をするのだろう。

他人のはずだ。
自分とも、もちろんユウリとも。

そこまで考えたところで、地面に叩きつけられ倒れ込む。


乱れた前髪の間から、傍らにうずくまったユウリの小さな背中が見えた。まだかろうじて息があるのか、丸まった背中が小さく上下している。

憐れな奴だ。

ずっと昔に縁を切った、限りなく他人に近い兄に要らない情けをかけ、結果死にかけている。

ユウリは今、薄れゆく意識の中で何を思うのだろう。

トオヤに関わってしまったこと、トオヤを実の兄に持ってしまったこと、すべてがユウリにとっては不運だったに違いない。


トオヤがそんな弟をぼんやり視界に映していると、それまで地面に伏せていたユウリの顔がゆっくりこちらを向いた。
頬は土で汚れ、口元は自身の血で真っ赤に染まっている。

頭を震わせながら、ユウリの血に濡れた唇が小さく動いた。

「…兄さん…」

痛みを堪えているのか、その顔は今にも泣き出してしまいそうに歪められている。


後に続く言葉は大体予想できた。

自分をこんな目に遭わせた男への恨み、憎しみ、後悔、絶望。

この弟は兄を呪いながら死んでいくのだ。


顔をくしゃくしゃにしたユウリが次に発した言葉は、だがトオヤの予想とは大きくかけ離れていた。


「…ごめんね…」


かすれて消えかけた声で、ユウリは確かにそう告げた。

トオヤに向けられた両目から涙があふれ頬を濡らしていく。

「…一人にして…ごめんね…」

泣きながら謝罪を口にする弟の姿を、トオヤはただ唖然と見つめていた。


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