走れ。走れ。
何も考えるな。とにかく城へ向かって真っ直ぐ走れ。
後ろを振り返りたい衝動に駆られながら、それでもライラは前だけを見て、がむしゃらに足を動かしていた。
ライラを逃がしてくれた彼がその後どうなったのか。
追っ手は後ろに迫っているのか。
あらゆる恐怖が頭を駆け巡るが、それを振り切ってひた走る。
城内へ逃げ込んだ後のことも、彼の告げた”あの人”が誰を指すのかも想像がつかない。
自分でも情けないくらいに分からないことだらけだ。
それでも今のライラには、彼の言葉を信じて城を目指すしかなかった。
警備の者たちは皆広場のほうへ集まっているのだろうか。
幸運にも無人の城門を抜けると、ライラは足をもつれさせながら城内へと続く大扉に肩から体当たりした。
扉の隙間から体をねじ込んだところで、バランスを崩して床に倒れ込む。
衝撃を覚悟して目をつむったとき、思いがけずライラの体は誰かの胸に受け止められていた。
(嘘でしょ…こんなところで捕まるなんて…!)
真っ青になった顔を上げると、
「大丈夫ですか?」
眼前には、見覚えのある男性の顔があった。
唖然と固まったままのライラの顔を、男性が心配そうに覗き込んでくる。
「もしや、どこかにお怪我を…」
その視線がライラの体に移ったところで、男性の表情が一気に強張った。
「それは…」
ライラの首に繋がれた縄と拘束された両手の間を、険しい視線が行き来する。
「一体、何が…?」
男性が問うように再びライラの顔を覗き込んでくるが、ライラの意識はまったく別のところにあった。
男性の顔を凝視したまま、ライラは思考を巡らせる。
…ちょっと待って。
この人は、シルドラ国王と一緒にいた…側近のトールって人じゃなかったっけ?
でも、どうしてそんな人がこんなところに一人でいるんだろう。
ううん、そんなことより。
この人は、味方?それとも…。
嫌な考えが頭をよぎったところで、さっきの彼の言葉が甦った。
もしかしたら彼の言う”あの人”とは、今目の前にいるこの人を指しているのだろうか。
この人なら私を助けてくれると。
「ライラさん?」
名前を呼ばれて、ライラは何度か瞬きした後、改めて目の前にいるトールの顔を見上げた。
初めて言葉を交わしたときの親近感は、今も変わらずそこにある。
大丈夫だなんて確証は何もなかった。
それでも今は、彼の言葉と目の前のこの人を信じる以外ほかにない。
ライラは両手でトールの服の胸を掴むと、覚悟を決めて言い放った。
「私を、小夜様の元まで連れていってくれませんか」
おそらく彼にはもう時間がない。
彼をあの場から救えるのは、きっと一人だけだ。
外のほうがなんだか騒がしいなと気づいたのは、開け放した窓から春風に乗って、人のざわめきのようなものが聞こえたからだった。
何だろう。町のほうで祭でもやってるのかな。
ふと思い立って、小夜はテラスに出てみることにした。
柔らかな風が頬に心地いい。
テラスの手すりに両手を預けて、遠く広がる町並みに視線を向ける。
祭の気配はどこにも見当たらないが、今も喧騒が聞こえてくるのを見ると、やはり何か催し事が行われているのだろう。
小夜がこの町に戻ってきて数週間。
一年前の襲撃などなかったかのように、町に暮らす人々は明るく生き生きと活動していた。
その間、不思議なくらいに誰も小夜に対して否定的な発言はしてこなかった。
長らく玉座を空けていたこと、無責任に外の世界を旅していたこと。責められてしかるべきことは山ほどあるはずだった。
それでも、町の人々は笑顔で小夜を受け入れ、手を貸してくれた。
優しい人たちに囲まれて、自分は誰よりも恵まれていると思う。
だがそんな人々に対して、小夜にはまだ告げられていないことがあった。
町を見下ろす横顔が、そのときわずかに翳りを帯びた。
城に戻った直後、民たちに向けて小夜は謝罪した。
外の世界でどれだけ自分が自由を得たのかは、そのとき確かに言葉にした。
だが、一人の男性に心動かされてしまったことは、どうしても口にできなかった。