すぐ側にあるトオヤの顔を強く睨みつける。
「…そんなこと…絶対にさせない…!」
怒りに唇を震わせる朱里に、トオヤが笑って返す。
「数分後には処刑される君に何ができるの?」
悪びれず言うその無邪気な態度は、悪魔そのものだ。
純粋な悪の塊が、今確かに朱里の目の前に笑って佇んでいた。
何を言っても無駄なのだと、頭の隅では分かっていた。
それでもここで諦めてしまえば、自分は処刑され、小夜はこの男の手にかかって殺されてしまう。
死んだ自分には小夜を救うことも、身代わりになることさえできない。
どうしようもなく無力な自分に悔し涙があふれそうになるのを必死に堪えながら、朱里は震える声で懸命に言葉を押し出した。
「…あんた、ずっと小夜の側にいたんじゃないのかよ…?小夜が国を立て直すために必死で頑張ってるのを、ずっと…一番近くで見てきたんじゃないのかよ…!」
「見てたさ」
「それならどうして、あいつを支えてやろうって思えないんだ…!確かに小夜は国を一度離れた。でも戻ってきたじゃねえか…!この国のため、国民のために戻ったんだ!あんただって一度は夢見たはずだろ?王女を支えるために力を尽くそうって、思ってたはずだろ…!」
脇腹の痛みなど頭から抜け落ちていた。
トオヤから聞いた話を思い起こしながら、とにかくひたすら訴えかける。それしか、今の朱里には術がない。
だが、その言葉もトオヤの前にはどこまでも無意味だ。
トオヤは一歩離れるようにして断頭台のほうに下がると、大きく腕を広げて無慈悲な答えを口にした。
「一度失った夢を信じられるほど、僕はお人好しじゃないんだよ。僕の築く新しい夢の世界に、彼女はいらない。だから消えてもらうんだ」
トオヤの背後で断頭台の刃が、ぬらりと濡れたような光沢を放つ。
命乞いする罪人に裁きを下す残酷な道具の前で一人笑うトオヤの姿は、まるでこの地に降り立った血の通わない神のようだった。
すべての人間を、自分にとって有益となるか否かで切り捨てていく。
そして彼の通り過ぎた後には、屍ばかりが山のように連なっているのだ。
「…あんたは腐ってる…」
吐き捨てると、朱里はトオヤを睨みつけて一歩前に踏み出した。
全身からあふれ出した怒りで、痛みは完全に消えていた。
一歩、また一歩とトオヤに向かって近づきながら、枷のはまった両こぶしを握り締める。
いくら言葉を尽くしても無理だ。こいつには言葉も思いも通じない。
同じ赤い血が流れる人間とは、到底思えなかった。
死が間近に迫った今の自分に何ができる?
どうすれば小夜を守れる?
頭に浮かぶ答えは一つだけだった。
「…小夜は必死に前に進んでる途中なんだ…。お前なんかにあいつの邪魔をされてたまるか!」
叫ぶと同時に、大きく振り上げた両手の枷でトオヤの顔面を殴りつける。
ぱっと血の飛沫が飛ぶのを横目に、振り下ろした勢いのままトオヤの腰に携帯されたナイフを奪い取った。
脇腹からぼたぼたと血が滴り、一瞬目の前が暗転したが、首を振って意識を繋ぎ止める。
まだここで倒れるわけにはいかない。
たとえ体中の血が尽きたとしても、この男をこの場で仕留めなければ。
そうしなければ、小夜を守れない。
そのとき、脳裏に悲しそうにこちらを見つめる小夜の顔が甦った。
こういうとき、決まってこんな顔をするのだ。
小夜は自分よりも他人が傷ついてしまうことを恐れる人間だ。きっと朱里のこの選択も、小夜を悲しませることになるのだろう。
それでも、決意は揺らがなかった。
(…構わない。俺はどうなったっていい。あいつの未来に俺はいなくても、あいつが生きていてくれるなら、ほかは何も望まない…!)
感覚を失った脇腹から血を流しながら、手に握ったナイフをトオヤの頭上に大きく振りかぶる。
地獄に落ちたっていい。
この悪魔のような男を道連れにできるなら。
勢いよく振り下ろした刃先を前に、そのときトオヤの顔がふっと笑みを浮かべるのが見えた。
直後、首に巻かれた縄が喉に食い込み、朱里は後ろに引き倒されるように仰向けに転がされていた。
視界いっぱいに広がった青空を割って、見覚えのある男が姿を現す。
こちらを憎々しげに見下ろすのは、階下に控えているはずの警備の男だった。
「こいつ…姫様だけに飽き足らず、トオヤ様まで…!」
胸ぐらを掴まれて、そのまま今度はうつ伏せに押し倒される。
手の中にあったはずのナイフは、地面の上に呆気なく投げ出されていた。
それを今、誰かの手がひょい、と拾い上げる。
「言っただろ?」
見上げると、口の端に血を滲ませたトオヤがこちらを見下ろして微笑んでいた。
「誰にも僕の邪魔はさせないって」
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