手に箒を握り締めたまま、ライラは唇を噛み締めた。
本当はずっと後悔していた。
どうしてあのとき、小夜の元を離れてしまったのか。
絶対に幸せにすると、心に誓ったはずなのに。
手の色が白くなるほどに箒の柄を強く握り、宙を睨みつける。道行く人が何事かとこちらを見てくるが、ライラの意識には留まらない。
悔しい。
あんな人でなしの言葉を怖がって、おめおめ逃げ帰ってきたなんて。
悔しい。
一度交わした約束も守れないなんて。
こんなの全然私らしくない。
いつまでうじうじ腐ってるつもりだ。
悩む暇があるのなら、とにかく行動。
それが、私の知っているライラのはず。
「ふう…」
目を閉じて大きく息を吐き出す。
再び開いた瞳には、彼女らしい強い意志の光が戻ってきていた。
「戻らなきゃ。今すぐ」
視線を真っ直ぐ城に注ぐと、ライラはスカートの裾をたくし上げて全速力で駆け出していったのだった。
肩で息を吐きながら、朱里は血の気の引いた顔で城壁に両手をついてうなだれた。
乱れた呼吸の合間になんとか呟く。
「…相変わらずの脚力っぷりだな…」
すぐ側に繋がれた茶毛の馬が、そんな朱里をせせら笑うように一声いななきを上げた。
相棒の容赦ない助力のおかげか、予想以上に早く朱里はマーレン城の前に辿り着いていた。
天を仰ぐと、まだ太陽は南に昇ったばかりだ。
「よし…!」
休憩もそこそこに、眼前にそびえる城壁を見上げる。
前もこんなふうに忍び込んだんだっけ。
呼び起される過去の記憶を懐かしみながら、朱里は助走もなしに大きく跳躍すると城壁の上にふわりと降り立った。
素早く周囲に視線を巡らせる。見える範囲には、警備の類はいないようだ。
(…ついてる。これならすぐに小夜のところまで行ける)
小さく息を吐いて、以前も忍び込んだことがあるテラスに視線を向けたとき。
「──あの!」
すぐ背後の足元から声がかかった。
思わずぎくりと肩を震わせる。
おそるおそる後ろを振り返り見下ろすと、見覚えのある少女が箒を片手に仁王立ちしてこちらを見上げていた。
「お前は…」
脳裏に、小夜を助けてくれと必死に懇願する少女の姿がよぎる。
思い出した。小夜の側に仕えている侍女だ。
だがなぜその侍女が、こんな城外で箒を抱えて立っているのだろう。
そもそも、この女は今味方なのか。それとも小夜から朱里を引き離そうとする敵なのか。
警戒も露わに様子を窺う朱里に、少女ライラは一度大きく息を吐き出して呼吸を整えると、凛と響く声で言い放った。
「お願いです。私も一緒に小夜様の元へ連れて行ってください!」
意志の強そうな眉の下、決意を秘めた瞳が燃えるように煌めく。
その顔を見れば、少なくとも敵でないことは明らかだった。
「分かった」
城壁の上で膝を折って、ライラに手を伸ばす。
「あんたには世話になったしな」
朱里の言葉に、ライラが一瞬目を丸くさせたあと大きく破顔した。
ふと、その右手に朱里の視線が移る。
「ところで…それも持っていくのか?」
苦笑しつつ箒を顎で示すと、ライラはそのとき初めて気づいたとでもいうように、自分の手に握られたそれを見て驚きの声を上げた。
「あっ!そういえば掃除の途中なんだった!」
箒と、差し出された朱里の手の間を、その視線が迷走する。
数秒後、
「まあ、父さんにはあとで謝ればいっか」
軽い口調で箒を放ると、ライラは今度こそ朱里の手を掴んだのだった。