そのとき、背後の闇の中から何かが小夜に語りかけてきた。
かわいそうに。お前はどこまで行っても独りきり。
何を怖がることがある。お前も父母のように消えてしまえば楽になる。
孤独を寂しく思うことも、背負った責に息苦しくなることも、何もなくなる。
すべてから解放され、自由になれる。
その優しい声音は、小夜に父を思い出させた。
もうお前は自由になっていいんだよ。
死ぬ間際に父が告げた言葉と、闇の囁きが重なる。
気づけば小夜の目からは涙が溢れ出ていた。
泣きながら、それでも小夜は走り続ける。
歯を食いしばって、爪が食い込むほどに拳を握り締めて。
逃げたい。楽になりたい。全部全部、終わらせてしまいたい。
そう願うのに、なぜだろう。足は止まらない。何かが小夜を繋ぎ留める。
その何かに背を押されるように、小夜は足をひた動かすのだ。
溢れる涙もそのままに駆ける小夜の視界に、ぼんやりと淡い光が入ってきたのは、それからすぐのことだった。
ずっと先まで伸びた廊下の奥には、一つの扉が佇んでいた。
今その扉がうっすら開いた奥から、仄かな白い光が漏れ出ているのが見えた。
迷う暇もないままに、小夜はその扉を押し開くと中に駆け込んだ。
目の前に広がるのは、見慣れた自分の部屋だった。
ベッドに、クローゼットに机に、すべてが記憶のままだ。
闇に沈んだ部屋の奥で、白い光を放つようにテラスへ続く窓辺のカーテンがぱたぱたと風に揺れているのが見えた。
引き寄せられるように、小夜は一歩また一歩と近づいていく。
風で大きく膨らんだカーテンを開くと、光に照らされたテラスが小夜を迎え入れるようにぼんやりと浮かび上がっていた。
素足のままテラスに降り立つ。
天を仰ぐと、漆黒の空に満月が一つ、ぽつんと浮かんでいた。
以前にもこんな光景を見たことがあるような。
無意識に小夜はテラスを進むと、手すりの向こうを見下ろしていた。
そこには誰かがこちらに後ろ頭を向けて立っていた。
きらり、とその銀色の髪の毛が光ったのを目にした途端、唐突に小夜は理解した。
なぜ自分が闇の言葉を受け入れず、必死に足掻いていたのかを。
考えるより先に体は動いていた。
躊躇うことなく手すりに足をかけ、宙に身を投げる。
不安はなかった。恐怖も、こちらを振り仰いだその人が、大きく腕を伸ばしてくれた瞬間に消え失せた。
温かい胸に抱き留められて、そのまま二人折り重なるように倒れ込む。懐かしい草いきれの匂いがした。
「いてて…」
頭上から声が聞こえて体を起こすと、目の前には彼がいた。
月明かりに照らされて、その翡翠色の瞳が小夜を見上げる。
「なーにやってんだよ、お前は」
怒ったように笑うその人を見た途端、目頭が熱くなった。
逃げたい。楽になりたい。その願いが霞むほどの強い願いを、小夜はようやく思い出す。
そうだ。
私はいつだって、ここに戻ってきたかったんだ。
絶望から私を救い出してくれるのは、いつもこの人だった。
この人は必ず闇の中から私を見つけてくれる。手を差し出してくれる。
この人は、私の光。希望。夢。
そして。
絶対に失いたくない、大切な人──。
目尻を伝う涙を感じながら、ベッドの上で小夜はゆっくりとまぶたを開いた。