それを聞いたユウリの顔が、わずかにほっと緩むのが分かった。
「すみません。せっかくのお話だけど、やっぱり僕はここに残ります。まだこの町に来てそんなに時間は経ってないけど、僕この町が好きなんです。この町に暮らす人も、もちろん親方も、まるで本当の息子みたいに良くしてくれて。何より、今は仕事がすごく楽しいんです」
ユウリの顔に浮かんだ笑みを見れば、その言葉に嘘はないのだと明らかだった。
そういえばこの子は、ないものねだりなんてしないんだった。
思い出して、的外れな自分の提案に思わず苦笑する。
誰かの助けなんかなくても、自分の力で道を切り開いていける。ユウリはそんな少年だったのだ。
口では友人と言いつつ、子ども扱いしてしまった自分を軽く悔やんでいると、ユウリが続けた。
「それに…この町にいればいつか、兄さんとちゃんと話ができる日も来ると思うんです」
真っ直ぐに城のほうに注がれる視線を追って、アールも同じように首を巡らせる。
「そうだね。きっと」
賑わいを取り戻した通りには、再び人の波ができていた。
辺りをぐるりと見渡して、アールはユウリに視線を戻す。
「ところで、この辺りで小夜様を見かけなかったかな?」
アールの問いにしばし考える素振りを見せた後、ユウリは「いいえ」と首を横に振って答えた。
「ここ数日はずっとお見かけしてません。お城でのお仕事がお忙しいのかもしれませんね」
「そうか。ありがとう」
無意識に視線は、通りのずっと先にそびえる城のほうに伸びていた。
ユウリの言うとおり、本当は城内にいるのか。それともまったく別の場所にいるのか。
彼女は一体どこに行ってしまったのだろう。
小夜の面影を探して、アールは視線を巡らせる。
脳裏にある男の顔が浮かんだのは、見上げた空の色が青い海を連想させたときのことだった。
濃紺の闇の中を、小夜はひた走っていた。
完全に黒に塗り潰されているわけではないので、周囲の景色はぼんやりと視界に捉えることができる。
ここは自分のよく知る城内だ。
けれど小夜の記憶の中のそれとはまったく違う。
真っ直ぐに伸びる廊下は終わりを知らず、どこまで行っても出口に辿り着けない。たまに曲がり角があったかと思うと、その先にはやはり同じような廊下が続いているばかりで、小夜を囲む景色は何も変わらなかった。
その中を、小夜は必死に走り続ける。
口が渇いて息が上がっても、心臓が破裂しそうなくらいに鼓動を打っても、裸足の裏が痺れてきても、とにかく前進し続けた。
ちらりと振り返り見た背後には、ひときわ濃い闇が満ちている。
限りなく漆黒に近いその闇の中には、先ほどからずっと、蠢く何かが一定の距離を置いて小夜の後をついて来ていた。
自分の足音に合わせて、背後からひたひたと冷たい音が響く。
立ち止まってしまえば、一瞬にして小夜の体はそれに呑み込まれてしまうだろう。
恐怖で叫び出してしまいそうなのを堪えて、小夜はそれから逃げ続けていた。
廊下の壁にはずらりと窓が並んでいたが、その向こうに広がっているのはぞっとするほどの闇ばかりだった。
どこにも逃げ場なんてない。
小夜はこの暗い世界に一人きりだった。
助けを呼ぶことに意味なんてないと分かっているのに、頭の中では繰り返し誰かの名を呼び続けていた。
それは時には父であり、時には母であった。
そして呼んだ後に気づくのだ。
二人とも、小夜の目の前で死んでいって、もうどこにもいないではないか、と。