おそらくこの老爺が集落の長なのだろう。
ひとしきり長老から集落の状況を耳に入れると、ロキは大きくうなずいて、
「よく分かった。また困ったことがあればいつでも言ってくれ。それと、少し水を頂戴していいか?」
立てた親指でくいと後ろの柵に繋がれた馬を指す。
「もちろん」と笑顔で答えた長老に礼を告げると、ロキはそのまま集落の中央にある井戸のほうへ一人歩いて行ってしまった。
残された朱里のことなどお構いなしだ。
挨拶すら交わしていない相手と二人きりという状況で、居心地の悪さから視線を丘の上に逃がしていると、長老が穏やかな声の調子で話しかけてきた。
「ロキ様がここに誰かを連れて来られたのは、あなたが初めてです」
思わず長老の顔を見つめ返す。
「そうなのか?」
まあ、だからと言って、それが何だという話なのだが。
「ロキ様は、あなたに信頼を寄せてらっしゃるんでしょうな」
予想外の言葉に、朱里は軽くふき出してしまった。
顔の前で手を振りつつ、首も横に大きく振る。
「いやいやいや、それは絶対ない。あいつのことだから、どうせ暇つぶしか気まぐれに連れて来ただけだろ」
むしろそれ以外に理由があるとは思えない。
この長老は、朱里をロキの友人か何かだと勘違いしているのだろう。あくまで朱里はロキにとって、一時的な執事…下手をすれば雑用係でしかないというのに。
ふと視線を移した先で、井戸の前に辿り着いたロキの背中に、集落の子どもたちが飛び跳ねながら寄っていくのが見えた。
ロキと何言か話した後、子どもたちが我先にと木の桶を抱えて水汲みを始める。
人差し指を立てて指示しているらしいロキの横顔は、普段とは違う穏やかな笑みを浮かべていた。
ぼんやりそれを眺めていると、長老が再び柔らかな口調で言った。
「決してロキ様はここに、人を気軽に立ち入らせたりはされませんよ。やはりあなたが特別なのでしょう」
にっこりと長老が微笑む。
その言葉に朱里は首をひねった。
なんだか妙な言い回しだ。
まるでロキがこの集落を、他人から隠そうとしているかのようではないか。
ぐるりと視線を巡らせてみても、ここは何の変哲もないいたって平凡な集落だ。謎めいた気配など少しも感じられない。
集落内から楽しそうな子どもの笑い声が響いて、朱里の胸に生まれた違和感が一層色を濃くする。
ロキは言っていた。秘密を教えてやると。
一体ここに、ロキの何があると言うのだろうか。
「あのさ、ここって…」
言いかけたとき、ちょうど長老の後ろから両手に桶を提げたロキが、子どもたちに囲まれながらこちらに向かって来るのが見えた。
長老もそれに気づいて背後を振り返る。どうやら話はここで終わりらしい。
肝心なことは何も聞けなかったなと渋い顔をしていると、長老が朱里の手を取って顔を寄せてきた。
突然のことに目を見開く朱里を見上げて、長老が告げる。
「あなたにこんなことを申し上げるのはおこがましいと分かっていますが、どうかロキ様をよろしくお願いします。私のような老いぼれではロキ様の枷にしかなれません。ですからどうか、あの方がお父上のようになってしまわれないように…」
そこまで告げると、長老は懇願するように朱里の手を強く握りしめた。
今までとは打って変わった必死な様子に、朱里は思わずうなずいて返す。
長老は安心したように再び笑みをこぼすと、そこでようやく身を引いた。
父親のように、とはどういう意味なのか。
問いただす間もなく、ロキが子どもたちを引き連れて合流したため、朱里の疑問は宙ぶらりんのまま頭の隅に残されることとなった。
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