「いつまでそうしているつもりだ。いい加減自分で手綱を握れ」
淡々と吐くロキに対し、朱里は青ざめた顔で馬にしがみついたまま答える。
「こんなスピードの中、手なんか離せるか!俺に死ねって言いたいのか!」
必死な訴えにも関わらず、ロキは躊躇いなく代理で掴んでいた手綱を朱里のほうに放ると、にやりと笑って告げた。
「それもまた一興だな。邪魔者が一人減って喜ばしい限りだ」
聞き捨てならない一言を残し、さらに速度を上げて朱里の横から遠ざかっていくロキ。
「おい…!なんかもう色々待てよ!」
朱里がなんとか顔を前に上げたときには、その背中は遥か前方で小さな点になっていた。
馬の背で揺れる操り手を失った手綱を視界に捉えて、朱里の顔が青ざめる。
前を行く黒毛に触発されたのか、茶毛がさらに急加速した瞬間、朱里は自分の死を覚悟したのだった。
「ほら。やればできないことなどないだろう」
余裕の笑みを浮かべて分かったふうな口を利くロキの足元では、朱里が地面に膝と両手をついて座り込んでいた。その頭は力なく地面に向けてうなだれている。
「…二、三回は死ぬかと思った…」
ロキの言葉に返事をする余裕もないらしい。
荒い息を繰り返しながら、一人奇跡の生還を噛みしめる朱里。
慰めたいのかそれとも馬鹿にしたいのか、側の柵に手綱を繋がれた茶毛が、ひときわ大きくいななきを上げた。
朱里とロキは、海から少し離れた小さな集落に辿り着いていた。
飾り気のない質素な石造りの四角い住居が所狭しと密集し、その間を縫うように住民が往来している様子が見て取れる。
シルドラ城下に広がる華やかな町とは、ずいぶん雰囲気が違うようだ。得てして、田舎なんてどこもこんなものなのかもしれないが。
簡素な集落の周りは、見渡すかぎりの小麦畑に囲まれていた。今は青々とした新緑が鮮やかだが、秋になれば一面に麦穂が美しい黄金に色づくことだろう。
集落の背後にはそれを見下ろすように、黄土を積み上げて平らにならしたような小高い丘が稜線を描きながらずっと先まで伸びていた。白い風車の羽が、丘の上で風を受けてゆったりと回っているのが見える。
こんなのどかな場所に、一体何があると言うのだろう。
わざわざ王自らが出向かねばならない何かが、この集落にあるとはとても思えない。
ちらりと隣を見ると、ロキは黒毛の馬を労うように背を撫でてやっていた。
決して朱里には見せない穏やかな表情だ。
へっ、と視線を逸らしたところで、集落の奥から一人の老爺がこちらへ歩いてくるのが目に入った。
「ロキ様」
しわがれた声で名前を呼ばれて、ロキが背後を振り返る。
「ああ。息災にしていたか」
顔見知りなのだろうか。今しがた馬に向けていたのと同じ笑みをこぼして、ロキは老爺に対面した。
「暮らしはどうだ。不自由はないか?」
ロキの言葉に対し、老爺が顔の皺をさらに深くして笑顔でうなずく。
「ええ。おかげ様で、皆心穏やかに過ごしております」
なんだか妙なやりとりだ。
なぜ一国の王であるロキが、ここまでこの小さな集落に気を留める必要があるのか。
ロキの隣で首を傾げる朱里に気づいたのか、老爺が不思議そうに目を丸くしてロキの顔を見上げた。
「ロキ様、この方は?」
「ああ。俺の連れだ。気にするな」
紹介する気は欠片もないらしい。かと言って、朱里もわざわざ自ら名乗り出るほど社交性を持ち合わせているわけでもないので、軽く頭を下げるだけにとどめておいた。