「──あれ?」
振り返った先に相棒の姿がないことに気づいて、小夜は辺りを見回した。
自分を囲む人波の中のどこにも探している人はいない。
すっかり話し込んでいる間にどこかへ行ってしまったのだろうか。
そんなとき、小夜の胸に誰かが何かを押しつけてきた。
見ればパン屋の女性が紙袋を小夜に渡しているのだった。袋の中にはたくさんのパンが詰まっている。
「これ、後で食べな。大切な人と一緒にね」
軽くウインクをする女性に、小夜は笑って頷いた。
「はいっ」
腕の中の紙袋を抱え直すと、香ばしい小麦の香りが鼻に届いて、思わず小夜は顔を綻ばせる。
帰ったら、朱里さんと一緒に食べよう。
いつもみたいに、笑って、いろんな話をしながら。
トオヤの屋敷の扉を開くと、そこには出てきたときと変わらぬ重たい空気が満ちていた。
よくこんなところに一人でいて平気なものだ。
自分だったらこれほどに息が詰まるような場所からは、早く逃げ出してしまいたい。
いくら家族と暮らした大事な家だとしても、ここはその家族を失った場所でもあるのだから。
トオヤはどういう思いがあって、今もこの屋敷に留まり続けるのだろうか。
薄暗いホールでぼんやりと佇む朱里の背に、そのとき静かな声がかかった。
「お一人ですか?」
声のしたほうに目を向ければ、階段を降りてくるトオヤの姿があった。
朱里たちが町に出るときに、二階の客間を用意しておくと言っていたのを思い出す。
おそらく、ちょうどその作業を終えたところなのだろう。
「ああ」
自然と肩に力が入った。
先ほどのトオヤの鋭い視線を思い出して、つい身構えてしまう。
警戒心が顔に出ていたのか、朱里の側まで来ると、トオヤは眉尻を下げて苦笑した。
「そんなに私がお嫌いですか?」
何も返せずにいると、トオヤが、無理もないですね、と小さくため息を漏らした。
「あなたからしたら、私は小夜様を連れ去りに来た余所者ですからね」
図星をつかれて、朱里は言葉に詰まる。
自分を見つめてくる薄緑色の瞳に、何もかも見透かされているような気分になった。
朱里の動揺に気づいているのか否か、トオヤは構うことなく言葉を続けた。
「言い換えれば、私たちマーレンの国民から小夜様を奪ったあなたのほうこそ、余所者ですが」
穏やかに澄んでいた瞳は、いつの間にか強い炎を宿して朱里に注がれていた。
呆気に取られる朱里の眼前で、トオヤは懇願するように深く頭を下げた。
「どうかお願いです。私たちの元に姫様を返してください。私たちにはあの方がどうしても必要なのです」
頭を垂れたままのトオヤは、恐らく朱里からの返答を待っているに違いない。
自分の望みが通るまでは頑として頭を上げない、その意志が今のトオヤからはにじみ出ていた。
余所者は俺のほう…。
まさにトオヤの言うとおりだった。
だからこそ、言葉にされると無性に腹が立った。
「…言われなくたって分かってる。俺が退場すればハッピーエンドってことだろ」
低頭したままのトオヤに背を向けて立ち去ろうとしたとき、背後から声がした。
「明日、小夜様を城へお連れするつもりです」
一瞬目を見張った朱里の表情が、すぐ苦々しいものに変わる。
「…勝手にしろ」
半ば吐き捨てるように答えて、朱里は二階へ続く階段を乱暴に上っていった。
脱力したように前身からベッドに倒れ込んだ。
大きく軋む音が辺りに響いたが気にする必要もない。どうせ周囲には誰もいない。
ベッドに体を投げ出したまま、しばらくは動く気にもならなかった。
何がハッピーエンドだ。
俺はまた手当り次第、周りに当たり散らしているだけだ。
師匠にしたのと同じことをトオヤにも繰り返した、自分のガキ臭さに反吐が出る。