そのとき通りを挟んだ店のほうから、あっ、という声が響いた。

「──姫様!」

声量のある女性の声に、朱里と小夜が同時に顔を向ける。

見れば立ち並ぶ店の一角、パン屋の前でこちらに大きく手を振る恰幅のいい年配の女性が立っていた。

瞬間、小夜の顔が輝いたのに朱里は気づいた。

「知り合いか?」

拭ったはずの涙が再び浮かんだ瞳で大きく頷いて、小夜が女性の元に駆けていく。
そのまま小夜は女性の胸に飛び込んで再会を喜んでいるようだった。

その後ろ姿をぼんやり見ていると、急に小夜が朱里のほうを指し示した。

どうやら女性に紹介しているらしいと気づいて、朱里は気乗りしないながらも頭を掻きながらそちらに歩いていった。



「あら!この人が噂の!」

女性の朱里に対する第一声がそれだった。

朱里は内心げんなりとする。またか。
トオヤに引き続き、ここでもあの噂だ。

一体誰が流したのかは知らないが、ここまで広まっているのだ。恨み言の一つでも言いたい気分だった。

だが、そのパン屋の女性は朱里の予想とは違う台詞を口にした。

「噂どおりの美男子ねえ!さすがは姫様が選んだだけあるね」

満足そうに頷いてみせると、女性は呆気に取られた朱里の肩を景気よく叩いて笑う。

「あんたも姫様を盗み出すなんて、大したたまじゃないの!」

これは褒められているのだろうか。

今や女性は痛いくらいの勢いで朱里の肩をバンバンと叩いてくる。

どう反応を返せばいいものか分からず、軽く笑って受け流す朱里に、小夜が微笑んで口を開いた。

「朱里さん、この方は私が昔からお世話になっているパン屋のママさんです。ここのパンは本当にどれも美味しいんですよ」

「姫様はうちの常連さんだからね。久しぶりに来てくれてすごく嬉しいよ」

仲良さそうに話す二人の間には、ほとんど身分や階級の差を感じない。

小夜はずっと昔からこんなふうに、この町で民と共に暮らしてきたのだろう。

民に愛され、そして小夜も民を愛してきた。

だからこそ小夜の帰還を、門のところで見た守衛も、この女性も心から喜ぶのだ。

気づけばパン屋の周りには、小夜に気づいた民たちで人集りができていた。

「姫様!お戻りになられたんですか!」

「お元気そうでよかった!」

「ぜひうちの店にも寄って行ってください」

皆、口々に小夜に声をかけてくる。
そして、そのどれもが小夜を気遣う温かさを感じさせるものばかりだった。

いつの間にか小夜の周囲は笑顔で溢れていた。
もちろん、小夜自身も笑っている。


朱里はその光景を前に、自分の犯した罪の重さを知った。


この町の者から小夜を奪ったのは自分だ。
そして、小夜からこの町の民を奪ったのも、自分だった。

どれだけ自分本位な夢を見ていたのか。

側にいてほしい、離れたくないなんて、本当は願うことすら罪だったのだ。

初めから小夜は自分のものではないのだから。




小夜を囲う輪の中から、朱里は無言のまま抜け出した。
自分がこの輪に加わる資格はないと思った。


そのまま元来た道を一人で戻る。


できることなら、これからも傍らで小夜を見守っていきたい。

唯一描いていた儚い夢も、持つことさえ許されないのだと気付かされた。

所詮、自分は泥棒だった。

忘れていたわけではないけれど、ただの泥棒が大それた夢を見た。

国の宝である王女を盗み出して、自分だけのものにしたいなんて、一介の泥棒が描いていい夢ではなかった。


黙々と歩を進める朱里の頬を春風がかすめていった。

まだ冬の名残を感じさせる冷たい感触が、容赦のない現実を知らしめているようだった。




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