一人の女性がホールの階段を足早に下りてきたのは、ちょうど朱里の背中が奥の扉の向こうに消えたときのことだった。
「ごめんなさい、ロキ様。お待たせしてしまって」
パタパタと靴音を鳴らしながらホールに下りてきた女性は、ロキの姿を視界に入れた後、不思議そうに辺りを見回して尋ねた。
「あら?子どもたちの声がしたと思ったんだけれど」
「彼女たちなら、俺の連れが遊んでもらっているところだ」
涼しい顔でそう答えると、ロキはホールの奥を顎でしゃくってみせた。
女性が振り返った先から、少女たちの楽しそうな声と若干乾いた朱里の単調な笑い声が聞こえてくる。
女性は納得したように、ああと笑みをこぼした。
「ご迷惑をおかけしてなければいいんだけど」
「問題ない。それより」
朱里の話題を早々に打ち切って、ロキが本題に入る。
今ここに朱里がいれば、何が問題ないのだと食ってかかっていたところだろう。
「申し訳ないが、しばらく旦那を借りる。危険はない任務だから、安心してくれ」
ロキの言葉に女性がわずかに顔を曇らせた。
偽りが混じっていることに気づいたわけではない。
「そうですか。いつ頃戻ってくるのでしょう」
「それは未定だ。すまない」
即答するロキに、女性が気持ちばかり首を横に振って気丈に答えた。
「いいえ。ロキ様が謝罪される必要なんてありません。夫は務めを果たしているだけなのですから」
だが、一向に女性の表情からは不安の色が拭えない。
ロキの知る限り、トールの妻は心配性な性分ではなかったはずだが。
「どうした。何か気になることがあるのなら話せ」
少し逡巡した後、女性は首を振って無理やり笑顔を装ってみせた。
「いえ、何でもないんです。少し気弱になってしまったみたいで」
そのときホールの奥の部屋から、再び少女たちの賑やかな笑い声が響いてきた。
女性が後ろを振り返りながら、ふふっと笑いを漏らす。
「ずいぶん楽しそう。ロキ様、ありがとうございます」
女性の横顔には、もう不安の名残はない。
ロキもそれ以上は詮索するのを止めておくことにした。
「礼ならあいつに言ってやってくれ。俺は今回何もしていない」
その言葉から、普段は気乗りしないながらも、少女たちの遊びに付き合ってくれているロキの姿を思い浮かべて、女性は破顔しつつ「はい」と頷きを返した。
「では、俺は城に戻る。旦那が不在の間、何か問題があればすぐに知らせろ。旦那の代わりとまではいかんが、可能なかぎり助力する」
それだけ言い置くと、ロキは身をひるがえして屋敷の外に出た。
そのまま海沿いの道をのんびり歩きながら、潮風を楽しむ。
途中、屋敷に置いてきた朱里のことが頭をよぎったが、まあいいか、とすぐにそれも風に乗ってどこかに飛んでいったのだった。
ダイニングの扉を開けた女性は、目を丸くして「まあ!」と口元に手を添えた。
大きなダイニングテーブルに着席した朱里を取り合うように、両隣から少女たちがそれぞれ、朱里の右腕と左腕を引っ張り合いっこしていたからだ。
「王子様は私と結婚するの!」
「だめよ!あなたにはロキ様がいるでしょ!」
「ロキ様は高嶺の花なの!この王子様くらいが私にはぴったりなんだから!」
「それはこっちのセリフよ!」
半ば喧嘩に近い少女たちの言い合いの間で、朱里は悟りを開いた仏のように我関せずの意志を貫かんとしている。が、その表情は限りなく青い。
師匠のところの三兄弟のように、乱闘ごっこなどということにはならないが、こちらはこちらで地獄だ。
少しでも口を出そうものなら、「王子様は黙ってて!」と叱られる始末。朱里には発言の自由さえ許されていないらしい。
拷問のように両腕を左右に引っ張られながら、自分を生贄に捧げたロキへの恨みを募らせているところに、救世主ならぬ女性が姿を現したのだった。