そこでふと、朱里はロキが発したある台詞を思い出した。

「…婚約者…」

ぽつりと呟いた朱里の顔にロキの視線が留まる。

「何か言ったか?」

「いや…あんた、さっきトオヤと話してたときに婚約者って言ったよな。小夜のこと」

じっと上目に窺うような視線を寄越す朱里に、ロキは目を丸くした後ニヤリと笑って答えた。

「言ったな。あんなことになって姫からの返事はまだだが、確かに婚約を申し出た。それが何か問題でも?」

ふざけたように首を傾げてみせる。

この男はどうも人で遊ぶ癖があるらしい。

脳裏にロキにからかわれる哀れなトールの姿が蘇った。トールには悪いが、同じ轍は踏みたくない。

怒ったら相手の思うつぼだと言い聞かせながら、朱里は慎重に言葉を紡いだ。

「なんで小夜と婚約する必要があるんだよ」

冷静沈着を心がけたはずだったが、言葉の端々に苛立ちが見え隠れしてしまうのは、もうどうしようもない。

余裕のロキは気にする風もなくさらりと答えた。

「王族同士、血の繋がりを持っておいたほうが、政が楽にいくからな」

「そんな理由で…」

「さして珍しくもない。王族同士の結婚など大半が政略的なものだろう。すべては国のためだ」

民間人の朱里からすれば、もはや異次元の考えだ。

だが思えば、小夜は一度ロキの言った意味合いでの結婚を経験している。

個人としての意志よりも、国への有益に重きを置いているのが、王族という存在なのかもしれない。


思わず押し黙る朱里に、ロキが口の端を持ち上げて告げた。

「もちろん、個人的にも姫のことは気に入っている。どうせ后を娶るのなら、ああいう素直な娘がいい。誰かのおかげで、まだ初物のようだしな」

言葉の意味が飲み込めず訝しむ朱里に対して、ロキがニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた。

「一年もの間、よく何もせず側にいられたな。紳士の鑑だ」

ロキの言わんとしていることに気づいた途端、朱里は顔を真っ赤に染めていた。

その場しのぎの平常心など、一瞬で彼方に吹き飛んでいた。

「誰がお前なんかに…!」

状況を忘れてその場に勢いよく立ち上がろうとして、天井で頭頂部を強打する。
そのまま頭を抱えて座り込んだ朱里に、ロキから一笑が返された。

「冗談にそこまで必死になるな」

やはりからかわれていたらしい。

頭を押さえたままじろりと睨む朱里に、ロキが独り言のように付け加えた。

「まあ…すべてが冗談というわけでもないが」

それが何を指しているのか気づいて、朱里は何も言えなくなる。

ロキは小夜に好意を抱いた上で、自分の后に望んでいるのだ。


では、小夜は何と答えるつもりだったのだろう。

膝の上に置いたこぶしをじっと見つめる。

自分よりも他人を優先させる小夜だ。答えは自ずと出ているような気がした。

脳裏で、隣に並んだロキに微笑みかける小夜の姿がよぎって、気づけば口が動いていた。


「その婚約の申し出、取り消してくれないか」

ロキが一瞬目を丸くした後、愉快そうに笑いをこぼした。

「ずいぶんと直球だな」

自分でも何を言っているんだという自覚はあった。

朱里は無造作に髪の毛を掻いて息をついた。

焦りすぎだ、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

自分の意思で離れたくせに、他人の手に渡るのは嫌だなんて、虫が良すぎる話だ。誰が聞いても馬鹿だと笑うだろう。

それでも、自分以外の男の側で笑う小夜なんて、絶対に見たくなかった。

だから、発言も撤回しない。

「あんたに小夜は渡せない。あいつは俺の相棒だ」

自分を真っ直ぐ見据える朱里に、ロキが呆れたように息を吐いた。

「姫のためとは言え、面倒な奴の世話を買って出てしまったな」

頬杖をつくと、ロキは挑発的な視線を朱里に送って言い放った。

「いいだろう。婚約が気に食わないというのなら、お前が体を張って阻止してみせろ。そう簡単に譲ってやる気はないがな」

「上等だ。やってやる」

ロキの挑発に乗るように、朱里も口の端を持ち上げてみせるのだった。




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