身をひるがえして部屋を出ていくロキの背中を横目に、朱里は、小夜の眠るベッドのほうに足を向けた。
側に佇んでいたトールが気を利かせて退室すると、室内は急に静かになる。
ベッドの傍らに膝をついて、朱里は眠る小夜に話しかけた。
「小夜、ごめんな。少しだけ離れるけど、すぐに戻ってくるから」
その頬に手を添え、こつんと額を合わせる。
長い睫毛に縁どられた閉ざされたまぶたも、一切の声を生まない小さな唇も、どんな形だろうが朱里にとっては愛しくてたまらないものだった。
「約束するよ」
小さく告げて、朱里は小夜の寝顔に微笑みかけた。
部屋を出ると、すぐ側の壁に寄りかかるようにしてロキが立っていた。
朱里の顔を認めて口の端を持ち上げる。
「別れの挨拶は済んだか」
「別れじゃない。再会の約束だ」
その言葉にロキは意外そうに目を丸くした後、愉快そうに相好を崩した。
「お前の言うとおりだな。俺が言葉を誤った」
言いながら笑い続けるロキに、朱里は思わずむっとする。
馬鹿にされているのだろうか、とその顔を睨みつけたとき、ロキの側でトールが口を開いた。
「殿下、あまりここに長居されないほうが」
「ああ、そうだな」
口元に笑いの名残を浮かべたまま、ロキが朱里に視線を留めた。
「では行くか。トール、後のことは任せた。好きなだけ俺の名を利用していい。姫を守れ」
「かしこまりました」
主の命に従う意思を見せるトールに、朱里は慌てて頭を下げた。
「俺からも頼む。あいつの側にいてやってくれ」
返事はすぐに頭上からした。
「ご安心ください。必ずお守りいたします」
顔を上げた先でにっこり笑うトールと視線が合う。
この男がどんな人間なのかまったく知りもしないのに、不思議と不安はなかった。
警戒心を煽らない人好きのする顔立ちと、物腰の柔らかさのせいかもしれない。
再度深く頭を下げて礼を告げたときだった。
「こいつは、見た目は優男だが剣の腕はいい。責任感もある。何かあっても身を挺して姫を守るだろう」
ロキがそう告げて、挑発的な笑みをトールに向けた。
気の毒になるくらいのえげつないプレッシャーを与えられても、トールの涼しい顔は崩れない。
それどころか「ええ、もちろん」と軽々受け流す様子を見ていると、普段から主のこういう態度には慣れっこなのかもしれない。
「女性を守るのが男性の役目ですからね。ただ、私が腰に下げてるのは木造剣なので、いざというときはあまり使い物になりませんけど」
何気なくさらりと告げたトールの言葉に、朱里は初めて不安を覚えた。
「それは…大丈夫なのか…?」
なぜわざわざ偽物の剣を持ち歩く必要が…とは思ったが、口には出さない。
トールは相変わらずの穏やかな微笑みを湛えて口を開いた。
「剣だけが強さではありませんよ。それに、私一人で姫を守るわけではありませんから」
思わせぶりな言葉に朱里が眉を寄せたとき、ロキが出立の声を上げた。
一人で先に進んでいくロキの背を追いながら、朱里はちらりと後ろを振り返る。
小夜の部屋の前に佇むのは、どう見てもトール一人きりだ。
どこかに仲間でも隠れてるのかな。天井裏とか、床下とか。
笑顔で手を振るトールの姿に疑問を残しながら、朱里はその場を後にしたのだった。
こうしてマーレン城の中をしっかり見て歩くのはこれが初めてだ。
左手に覗く食堂から賑やかな声が聞こえてくるのを耳にしながら、朱里はしみじみ辺りを見回した。
ここが小夜の暮らす城か。
活気があって明るい、住みやすそうな城だ。
大きく張り出した窓から差し込む春の木漏れ日が心地いい。
小夜にとっても決して悪い環境ではなかったはずだ。
あの男があんな暴挙に出るまでは。