「俺たちの姫様に何てことを…!」
上から響く男の怒声も朱里の耳には入らない。
朱里は頬を地面に押しつけたまま、慌ただしくなり始めた目前の光景を呆然と見つめていた。
「出血がひどい!すぐに医者に診せないと!」
「駄目だ!無理に動かそうとするな!ここに医者を呼ぶんだ!」
半ば怒号に近い声が飛び交う中、男たちの足の隙間から小夜の横顔が見えた。
朱里さん、と嬉しそうに頬を染めて笑う彼女の面影はどこにもない。
命が流れ出していくように、血溜まりが面積を増していく。
「…嫌だ…」
震える口の間から声が漏れた。
こんなはずじゃなかった。
小夜を幸せにするために、別れの道を選んだはずだった。
離れたくないと泣きじゃくる小夜を突き放してまで、距離をおいた結果がこれなのか。
自分が選択を誤ったばかりに、こんなことになったのか。
食いしばった歯の間から、嗚咽に似た息が漏れた。
あふれた後悔が涙に変わり、目尻を伝って頬を濡らしていく。
「…行くな、小夜…行かないでくれ…!」
これが国を捨て、二人で過ごした時間への報いだというのなら、小夜を手放せなかった自分にこそ与えられるべきだ。
どんな罰でも受ける。
手足をもがれたっていい。首を落とされたっていい。
涙で歪んだ視界に動かない小夜の姿を映しながら、朱里は哀願する。
だから、お願いだ。
こんな形で小夜一人に罪を背負わせないでくれ──。
駆けつけた部屋の入口で、ライラは唖然と立ち尽くしていた。
庭から聞こえる騒ぎは、その耳にも確かに届いていた。だから何が起こったのかはすぐに分かった。
小夜様がテラスから落ちた。
でも、どうして?
答えを告げるように、テラスに佇んでいた背中がこちらを振り返った。
「やあ」
月明かりに照らされて微笑むトオヤの顔を見た瞬間、ライラは理解した。それと同時に背中を汗が伝う。
背後に響く喧騒など気にもならないように、トオヤはいつもどおり口元に笑みを湛えてこちらに近づいてきた。
「君が彼を手引きしたんだろう?あれほど忠告しておいたのに、本当に人の話を聞かないね」
すくんで動けないライラの前に、トオヤの影が立ち止まる。
月が逆光になって、その表情はよく見えない。
「全部君の行動が招いたことだよ、ライラ。君のせいで小夜様はあんなことになったし、彼も数日のうちに処刑される。君が二人の命を奪ったんだ」
「あ…」
ライラのぽっかり空いた口からは意味をなさない声だけが漏れた。
「だから言っただろう、君は幼稚だって。後先考えずに動くからこうなるんだよ。誰かを幸せにできるなんて、どうしてそんな勘違いをしてしまったの?」
何も言葉が出ない。
良かれと思ってしたことが、二人を傷つけることになってしまった。
それは言い逃れようのない事実だ。
ライラの瞳から大粒の涙がこぼれた。
ただ小夜様に、心の底から幸せになってもらいたいだけだった。
好きな人の隣で、普通の女の子としての幸せを手に入れてもらいたかった。
そう願った結果がこれだ。
ライラは二人を最悪な結末に導いてしまったのだ。
「…ごめんなさい…」
とめどなくあふれる涙が、床を濡らしていく。
どれだけ謝罪しても、もう遅いことは分かっている。
それでも謝らずにはいられなかった。
「…小夜様、ごめんなさい…ごめんなさいっ…」
震えるライラの肩に手が触れた。
「今さら泣いて謝ったって、もう小夜様は戻ってこないよ。それに、君にも罪人の逃亡を手助けした罪がある。君だって処刑の対象だ」
どこか楽しそうな声でトオヤがそう告げた。
ライラはぼんやりした頭でふと思う。
この人はどうしてこんなときに笑っていられるんだろう。