「──小夜!」
力任せに扉を開いて駆け込んだ朱里の目に映ったのは、テラスに佇むトオヤの後ろ姿だった。
月明かりに照らされた背中の向こうに、頭一つ分低い人影も見えた。
トオヤの手がその小さな頭に伸ばされているのを捉えて、朱里は駆け出していた。
言葉を発する余裕はない。
がむしゃらに足を動かして手を伸ばす。
こんなにもテラスまでの距離は遠かっただろうか。
トオヤの背中の奥で、ドレスから覗いた細い足がふわりと宙に浮くのが見えた。
こんなにも自分の足は遅かっただろうか。
必死に伸ばした手は、空を掻くばかりで何も掴めない。
そのまま小さな足先は、テラスの向こうに音もなく吸い込まれ、視界から消えていった。
「小夜っ!」
一呼吸遅れて辿り着いたテラスの手すりに、朱里は半ば体当たりするように身を乗り出した。
眼下に広がる庭に目を凝らす。
地面に投げ出された白い腕が見えた瞬間、心臓が一際大きく跳ねた。
手すりを掴んだ手に力が入る。口から漏れる息が震えた。
ほのかな月明かりに照らされた地面に、小夜は仰向けで横たわっていた。
広がったドレスから覗く華奢な手足はぴくりとも動かない。
「王子様は間に合わなかったみたいだね」
隣でくすりと笑うトオヤを強く睨みつけると、朱里は躊躇いなく手すりに足をかけテラスから飛び降りていた。
横たわったままの小夜に駆け寄る。
「小夜…っ!」
小夜は眠るようにまぶたを閉じていた。
その仰向けの姿を視界に捉えて、思わず息を飲む。
着衣の乱れた胸元が、彼女に起こった悲劇を明確に物語っていた。
小夜を襲った恐怖を思うと、胸をえぐられる。
やり場のない怒りにこぶしを握り締めながら、朱里はコートを脱ぐとそれを小夜の体にかけてやった。
「ごめんな…。でももう絶対に離れないから」
小夜からの返事はない。
力なく倒れたままの小夜の体を抱き起こすため、頭の下に手を差し入れたときだった。
ぬるりと濡れた感触がした。
「え…」
自分の手を見下ろして、朱里は絶句する。
真っ赤に染まった手のひらから、指の隙間を伝って雫がぽたりと滴り落ちた。
ゆるゆると視線を転じると、小夜の頭の下に血溜まりが広がっていくのが見えた。
「小夜…?」
血に濡れた手を、眠る小夜の横顔に伸ばす。
もう一度名前を呼ぼうと震える唇を開いたとき、背後からバタバタと足音が響いた。
視界の端から警備らしき数人の男が駆け寄ってきて、朱里たちの側で立ち止まる。
地面に倒れた小夜の姿に、息を飲む音が聞こえた。
「一体何があったんだ…!」
中の一人が、座り込んだ朱里に詰め寄ってくる。
その問いに応えることもなく、朱里は呆然と小夜に視線を留めていた。
地面に横たわった小夜は、まるで糸の切れた人形のようだった。
男たちの声かけにも反応せず、長いまつ毛に縁取られたまぶたは、固く閉ざされたまま開く気配もない。
つるりとした頬からは血の気が失せ、月の光を受けて一層その白さを際立たせていた。
「おい!お前が姫様に何かしたのか!」
目前に男の険しい顔が迫り、胸ぐらを掴まれ揺さぶられる。
何もしてない。そう答えようとして、朱里はその言葉の意味することに気づいて口をつぐんでいた。
そうだ。自分が何もしなかったせいで、こんなことになったんじゃないか。
そのとき頭上から声が降って下りた。
「ええ、その罪人が姫を突き落としたんです。すぐに拘束してください」
テラスからこちらを見下ろすトオヤと視線が交差する。
気づけば朱里は地面にうつ伏せに押し倒され、両手を後ろで拘束されていた。