ライラの耳に妙な音が届いたのは、その部屋の扉の前まで来たときだった。
馴染みのある扉の向こうから、聞き慣れない声がした。
いや、声自体はよく耳にしている人のものだ。
だがその声の調子が普段とは違う。
まるで、小さな悲鳴のような…。
そこまで考えたところで、ライラは恐る恐る鍵穴から部屋の中を覗いてみることにした。
いつもならこんな真似は絶対しないが、なぜか今はこの扉を開いてはいけないような気がした。
小さな穴の向こうには、薄暗い闇が広がっていた。
どうやら灯りをつけていないらしい。
見える範囲で室内を見回すが、不思議なことに人の影は見えない。
あれ?確かにここから声が聞こえた気がしたのにな。
別室から聞こえたのを勘違いしてしまったのだろうか。
鍵穴から目を離そうとしたところで、再び女性の声が漏れ聞こえた。
ライラは目を見張る。
やはりこの部屋の中から聞こえた。間違いなく誰かがいるのだ。
もう一度、今度は丁寧に暗い室内に目を凝らしてみる。
もぞり、と視界の隅で何かが動くのが見えた。
何だろう?
目を細めて注視する。
それは部屋の端にあるベッドの上だった。
そこに今、誰かの影がもぞもぞと動いているのが確かに見えた。
小夜様かな?
初めはそう思った。
それなら少しもおかしなことではない。
このまま扉を開けて、夕食を届けに来たという名目で、結婚のことについて話を聞ける。
流れによっては彼の居場所を告げてしまおう。
彼と再会できれば、きっと小夜様だって結婚を思いとどまってくれるに決まってる。
よし、と心の中で自らを鼓舞したときだった。
「嫌っ…!」
部屋の中から小夜の悲鳴が聞こえた。次いで何事かを告げる男の声。
その直後自分の目に映った光景に、ライラは息を飲んでいた。
暗闇に沈んだベッドの上に半身を起こした男の背中を、ライラはよく知っている。
その男の体の下に横たわったドレスにも見覚えがあった。
今朝自分が選んだものなのだから、当然だ。
「…嘘でしょ…」
息を吐くように呟いて、ライラはその扉から後ずさっていた。
足が震える。盆を持つ手も震えて、カチャカチャと皿が小さな音を立てた。
真っ白になった頭で、ライラは必死に辺りを見回す。
誰か。誰か呼んでこないと。
そう思うのに、こんなときにかぎって周囲には人の気配がない。
誰か──。
そのとき、脳裏に浮かんだのは一人だけだった。
くずおれそうになる足を必死に踏ん張ると、ライラは背を向けてその場から駆け出していった。
「…うぐぐ…もうちょっと…」
通路に射し込む月明かりがほのかな光を生む中、鉄格子の隙間から必死に腕を伸ばして朱里が呻いた。
その手には何やら紙が握られている。
以前ライラが手渡してきたのは手紙のようだった。
彼女の言葉からすると、小夜が朱里に宛てて書いたものらしい。
絶対に読んでくれと念を押されたのはいいものの、この牢の中は完全な闇に包まれていて、読もうにもそもそも文字がまったく見えない。
そういうわけで、少しでも明るい通路のほうに腕を伸ばしてなんとか手紙の内容を確かめようとしている、というのが今の状況だった。
「…全っ然読めねえ!」
格子に頬を押しつけながら、朱里が叫ぶ。
はたから見ると相当に不格好だが、本人はそれどころではないらしい。
どうしても諦めきれないのか、半ば肩まで格子の向こうに押し出したところで、扉の開く音がして何者かが駆けてくるけたたましい足音が響いた。
慌てて腕を引き戻し、手紙もズボンの後ろに押し込む。
誰の足音かはもう分かっていた。
「…今度は何だよ」
盆を抱えたまま現れたライラの姿を、朱里は冷たく一瞥する。
正直、この侍女とはあまり関わりたくなかった。
かき回すだけかき回して、後はとんずらするような女だ。
これ以上、期待した挙句に失望させられるのはごめんだった。