「トオヤ…?」

「違うでしょう、小夜様。本当は怖くて不安で仕方がないんでしょう?」

月の光を浴びた薄緑の瞳が眼前からこちらを覗き込んでくる。

「なぜいつも自分ばかりが、国のために犠牲にならなければならないのか。こんな理不尽な世界であとどれだけ耐え続ければいいのか。テラスでこちらを振り返ったときのあなたの顔に、そう書いてありましたよ」

急にその眼光が見知らぬ人のものに見えて、背筋に寒気がはしった。同時に心臓が早鐘を打つ。

自分は本当にそんな顔をしていたのだろうか。

「トオヤ…?何を言っているんですか…?」

息がかかりそうなほど近くで、トオヤの口元がくすりと笑みを刻んだ。

「ずっと側であなたを見てきたんです。あなたの気持ちは痛いほどに分かりますよ。結婚なんてしたくない。そうでしょう?私の前で強がる必要なんてないんです。あなたを泣かせる不安も恐怖も絶望も、すべて私が消してしまいましょう。だからあなたは何も考えず、このまま私に身をゆだねてください」

唇が近づいてきて、とっさに小夜は拒むように顔を背けていた。

頭の中が混乱していた。
トオヤが何を言いたいのか分からない。

身をゆだねる?
それはつまりどういうことだ?

小夜の知るトオヤと目の前で冷たく笑うこの人とは、まるで別人のようだった。

頭上で小さな笑いが漏れた。

「ああ。小夜様はまだ彼のことを引きずっていらっしゃるんでしたね」

え、と呟いた瞬間、視界が反転した。

背中をベッドに押しつけられる感触。

気づけば、馬乗りになったトオヤが上から微笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

「ご安心ください。彼の代わりはいくらでも私が務めましょう。彼はいつもどんなふうにあなたに触れていたのですか?」

冷たい指先が唇に触れ、首筋をなぞっていく。
ぞくりと鳥肌が立った。

「トオヤ、待ってくださいっ…」

必死に押し返そうとするが、トオヤの大きな手はびくともしない。

流れるような動作でドレスの前を緩めると、トオヤは小夜の胸元にするりと手を滑り込ませてきた。
冷たい手のひらの温度に、びくりと体が震える。

無遠慮に肌を撫でる手の感触に吐き気すら覚えて、小夜は声を押し出した。

「トオヤ…!」

これ以上はやめてほしいと訴えたつもりだった。

どういうつもりなのかは分からないが、冗談にしては行き過ぎているし、口元に薄ら笑いを浮かべたトオヤの様子を見れば本気だとも思えない。

するとトオヤが、小夜の耳元に顔を寄せてささやいた。

「怯えてらっしゃるんですか…?あれだけ外の世界で男と一緒にいて、今さら生娘でもないでしょうに」

言葉の意味までは理解できない。
それでもその微笑みに嘲りが含まれているのに気づいて、小夜は愕然とした。

分からない。自分が何をされようとしているのかも、トオヤが考えていることも、何一つ。


ただ本能が警告を鳴らす。この人は危険だと。このまま好きにさせてはいけないと。

自分の上にのしかかる得体の知れない何かに恐怖を感じながら、小夜は必死に声を発した。

「どうしてこんなことをするんですか…!」

肌の上で蠢く冷たい指先が動きを止める。

目下から顔を上げたトオヤはにっこり笑って答えた。

「あなたを慰めて差し上げたいんですよ」

小夜は思わずかぶりを振っていた。

トオヤはこの行為が慈しみからくるものだと言うのだろうか。

「…私は慰めてもらう必要なんて…」

呟いたところで、頬にトオヤの手が触れた。
温度を感じさせない瞳が目前に迫る。

こつんと額を当てて、トオヤは微笑みを浮かべた。

「あなたがずっと頑張ってきたこと、私はよく知っていますよ。この国のため、民のため、みんなの幸せのために身を粉にして、王女らしくあろうとずっと一人で戦ってきたんですよね」


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