私がもし普通の家庭に生まれたただの小夜であったなら、今も彼の側にいられたのだろうか。
当たり前のように、隣で彼を見上げて笑っていられたのだろうか。
いつかは二人で小さな家に暮らして、家族だって増えて。
おじいさんとおばあさんになっても、ずっと仲良く寄り添っていられたのだろうか。
鼻をすする音が静かなテラスに響いた。
今夜だけは泣いてもいいのだと自分を慰める。
「ずびっ」
もう一度鼻をすすって、小夜は涙のあふれる瞳で夜空を仰いだ。
今頃彼は何をしているのだろう。
もしかしたら夕食の時間かな。
ふと、小夜の頬が緩んだ。
皿の隅にせっせとニンジンを寄せる、彼の真剣な姿を思い出したからだ。
彼が食べられるようにと、調味料を振ってあげるのが小夜の役目だった。
「私の代わりに、誰かが食べさせてあげられていればいいんですが…」
その言葉を受けたように空で星が瞬いた。
口元の前で両手を組むと、まぶたを閉じて小夜は祈る。
どうか、彼が一人で寂しい思いをしていませんように。
彼を支えてくれる優しい誰かが、彼の隣にずっと寄り添ってくれますように。
そして願わくば、彼のこれからの未来が幸せであふれていますように。
瞳を開くと、頭上の星が小さく瞬いたのが見えた。
今の自分が彼のためにできることは、これくらいしかない。
涙で頬を濡らしながら小夜は祈り続ける。
どうか。どうか。
今夜だけは、国よりも彼の幸せを願わせてほしい。
「──小夜様」
呼ばれて振り返ると、部屋の薄闇の中を歩いてくるトオヤの姿が見えた。
「申し訳ありません。ノックはしたのですが、返事がなかったので心配になって」
小夜は目元を拭うと笑顔で返す。
「すみません。考え事をしてました」
「…ご結婚のことですか?」
静かな声が尋ねてきた。
トオヤの顔は影に隠れてよく見えない。
強く吹いた風に乱れる髪を押さえていると、月明かりの落ちるテラスにトオヤが手を差し伸べてきた。
「春とは言え、夜はまだ冷えます。どうぞ中へ」
月の光を受けて穏やかに微笑むトオヤの手を取る。
テラスから差し込む明かりを背に、小夜は引かれるままベッドの端に腰を下ろした。前に佇むトオヤの顔を見上げる。
こんな夜に彼が部屋を訪ねてくるのは初めてのことだった。
そういえば自分はロキの話をして以来トオヤと顔を合わせていない。夕食の席にさえ出なかった。
心配になって様子を見に来てくれたのだろう。
「…トオヤ、心配をかけてしまってごめんなさい」
頭を下げると、小夜は意識して笑顔で続けた。
「私はもう大丈夫ですから。いろいろ考えましたが、結婚のお話、お受けしようと思います」
トオヤの顔がわずかに強張るのが見えた。
小夜は慌てて付け足す。
「もちろん嫌々というわけではないですよ。ロキ様は素敵な方ですし、それにこの国のためにも、そうするのが一番いいと思うんです」
城に戻って以来、ずっと側で支えてきてくれたトオヤだ。
何度も小夜の背を押してくれた彼なら、今回の選択も賛同してくれると信じたかった。
微笑みかける小夜の顔に、トオヤの手が伸びてきた。
「それなら、なぜ涙なんて?」
頬を撫でる冷たい指先の感触に、とっさに身を引く。
涙の跡でも残っていたのだろうか。
手の甲で目元をこすって誤魔化した。
「違うんですよ。本当に嫌だなんて思って──」
言葉の続きは口内に留められた。
小夜の両肩を掴んだトオヤが、顔を寄せてきたからだ。