扉を後ろ手に閉めて背を預ける。
小さな息が漏れた。
西日の入り込んだ室内は、壁まで茜色に染まっていた。きっとすぐに夜がやって来るのだろう。
新鮮な空気を求めてテラスへ出る。
少し冷たい風が、慰めるように頬を撫でていって、なんだか泣きそうになった。
このテラスは、小夜が城の中で大好きな場所の一つだ。
ここからなら城下の町が一望できる。
父の守りたかった町、自分がこれから守っていかなければならない町なのだとそっと背を押してもらえる、そんな場所だ。
そして何より、彼との大切な思い出が残る数少ない場所だった。
一年前のあの夜と同じように、手すりに身を寄せ庭を見下ろしてみた。
もちろんそこには誰の姿もない。
小夜は自嘲して顔を上げた。
山際に溶けていく夕日が、遥か遠くからこちらを見つめていた。
ロキから結婚の話が出たとき胸に生まれた躊躇いの正体は、もう分かっていた。
結婚相手がロキだからというわけではない。
ロキは思いやりのある優しい人だと思う。きっと小夜がシルドラに嫁いできても悪いようにはしないだろう。
だが、人の妻になるということは、生涯その人の側で共に生きていくということだ。
その約束は、死が二人を分かつまで続く。
結婚すれば、彼とはもう二度と会えない。
二人並んで笑い合う日々は二度と帰ってこない。
それが躊躇いの正体だった。
もう夢は見ないと決めたはずだった。
それでも毎晩テラスの鍵を閉めずにいたのは、心のどこかで奇跡を待っていたからだ。
起こるはずはないと知りつつ、奇跡の再来を諦めきれなかった。
「…でも、もうそれも終わりなんですね…」
呟いて、小夜は夕日に目を細める。
もしかしたら覚悟なんて、とうに決まっていたのかもしれない。
この城に戻ってきた時点で、彼の相棒であるただの小夜は消えた。
ここにいるのは一国の未来を背負う王女の小夜だ。
久しぶりに城に戻った日、小夜には心に決めたことがあった。
今のようにテラスから町並みを見下ろして、自分に強く言い聞かせた。
この国に住まう全ての人の幸せを守るために、最善の道を選ぼうと──。
覚悟は決まった。
わずかに残っていた太陽の頂きが山の向こうに消えると、世界は穏やかな群青色に包まれた。
眼下に広がる町並みを、小夜はテラスからぼんやり眺める。
家々の窓から漏れた灯りは、まるで地上に息づく星の海のようだった。
あの光の一つひとつに人々の暮らしがある。
そう思うと、自分の選択は間違っていないのだと少し安心できた。
明日の朝にはロキ宛ての手紙を書こう。
きっとこれから忙しくなる。
過去を恋しく思うことも、奇跡を願うこともなくなるだろう。
だから今夜だけは、彼のことを想いたい。
小さく微笑んで、小夜はまぶたを閉じた。
冬の名残を感じさせる、しんと透き通った空気。
肌に触れる柔らかな風。鼻に届く春の夜の匂い。
そのすべてがあの夜のままだった。
自分の運命に抗いたくて、彼の胸に飛び降りたあの夜。
必死に彼の背中を追いかけた。
前を歩いていた背中がいつの間にか隣に並ぶようになった頃には、自分が王女であることを忘れかけていた。