「いえ!それはっ…」
咄嗟に口をついて出た否定に手で口元を押さえると、ロキがおかしそうにくっくと笑った。
「冗談だ。それほど返事を急いてはいない。今提示した条件については、後日書面で報せてくれればいい。もちろん直接会いに来てくれても構わんぞ」
涼しい顔で言いのけて、そのまま身をひるがえし元来た道を戻っていく。
慌ててその背中を追う小夜に、横顔だけ向けてロキが告げた。
「協定を結ぶには、俺たちにもそれ相応の覚悟が必要だ。姫にもその覚悟を見せてもらいたい」
自分の前を行く大きな背中は、何事にも揺らぎなく見えた。
きっとこの人は今までも幾度となく覚悟を決め、色々なことを乗り越えてきたのだろう。
小夜はうつむいて自分の小さな手のひらを見つめる。
自分は今まで何か覚悟を持ったことがあっただろうか。
全部そのときの流れに身を任せて生きてきたのではなかったか。
私の、覚悟。
脳裏に銀髪の青年がちらついて、胸の中の躊躇いがその重さを増したような気がした。
「もうお帰りになっちゃうんですか?」
馬車に乗り込もうとするロキとトールにそう声をかけたのは小夜…ではなく、見送りについて来た侍女のライラだった。
小夜がロキと二人で庭に出ている間、手持ち無沙汰にしていたトールにお茶出しをしてもてなしたのがライラだったのだ。
その短い時間ですっかり打ち解けたらしく、ライラは先ほどからトールに対し笑顔の花を振りまいているようだった。
トールも馬車の奥の席から窓のこちらに立つライラに笑顔を返している。
その側にはトオヤの姿もあったが、彼は静かに佇んでいるだけだった。
窓の側にかけたロキが、ライラの隣でぼんやりしていた小夜に声をかけてきた。
「次に来るときは、町のほうも見てみたいな」
小夜は慌てて頭を上下に頷かせる。
「はい…!美味しいお店がたくさんあるのでご案内しますっ」
考え事ばかりで見送りがおろそかになっている自分を恥じていると、ロキが口から笑いをこぼした。
「ああ。任せた」
そのまま発車した馬車に手を振って見送る。すぐに通りの先にその姿も見えなくなった。
小さく息をつく小夜の変化に気づいたのはトオヤだった。
「小夜様、大丈夫ですか?」
すかさずライラも顔を覗き込んでくる。
「あ、えと…」
大丈夫です、と返事をしようとしてその言葉を飲み込んだ。
ここで二人に隠しても心配させてしまうだけだ。
正直に全部話そう。
顔を上げると、すでに心配そうな顔で二人がこちらを見つめていた。
「ロキ様とのお話で、シルドラはマーレンと協定を結んでくださるそうです」
小夜の言葉に二人が安堵の息を漏らす。
「…ただ、その条件として…ロキ様に結婚を申し込まれました」
少しの沈黙の後。
「え…!?」
思いのほか大きな声がライラの口から漏れた。
その顔は驚愕で固まっている。
その隣のトオヤの顔をちらりと見やると、彼も顔を曇らせたまま黙り込んでいた。
どちらも予想だにしない話だったのだろう。
小夜でさえ考えもしない条件だったのだから。
「さ、小夜様…まさかその話、引き受けたりしませんよね…?」
怖々とライラが口にする。
小夜はそれに小さく笑って答えた。
「まだ今は分かりません。もう少し考えてみないと」
「考えるって…でも小夜様にはほかに好きな人が…!」
心臓をぎゅっと掴まれた気がした。
小夜は笑顔を保ったまま静かに告げる。
「少し、一人で考えてみますね」
そのまま二人に背を向けて、城内を自分の私室へと足早に進む。
どんな表情をしているのか自分でも分からなかったが、すれ違う人がいないのが幸いだった。