「──ちゃん」
遠くのほうから、靴音を掻き鳴らしながら廊下を駆けてくる音があった。
靴音が大きくなるのに合わせて、その声もだんだんと大きくなる。
「──坊ちゃん!」
大きく呼ぶ声がして、その部屋の扉が派手に音を立てて解き放たれた。
三方を天井まで伸びる窓に囲まれた部屋の奥には、一脚のカウチソファが置かれていた。
深いブルーのベルベット生地を、優美な彫刻が施された木組みが緩やかな曲線を描きながら彩っている。
そこに今、一人の男が仰向けに横たわっていた。
長く真っ直ぐに伸びた足をソファの先に投げ出して寝転がる男は、胸の上に数枚の紙を乗せたまま、腕をだらしなく床に落としている。
その顔面にも同じような紙が乗っているため、表情を窺うことはできない。
開かれた窓から入る海風に、床にまで散乱した書類の束がパラパラと舞い上がった。
「坊ちゃん!」
もう一度、扉の前でひと際大きい声が響いた。
間違いなくソファに寝そべる男を呼んでいるのだが、眠っているのか、男が反応する気配はない。
扉の前に立っていた声の主が大きくため息をついて、再度口を開いた。
「──ロキ殿下」
風が男の顔にかかった紙をふわりと飛ばしていった。
男の整った顔立ちが露わになる。
癖の強い鮮やかな赤い髪に、南国を思わせる艶やかな褐色の肌。長い睫毛に縁どられた瞼は閉じられていた。
真っ直ぐ通った鼻筋に、どこか色気を帯びた唇。
頬から細い顎に向けて描かれた輪郭は、一切の無駄がなく洗練されている。
年の頃は20代半ばだろうか。
まるでどこかの絵画から飛び出てきたような男の瞳が、ゆっくりと開かれた。
澄んだ海の青がその瞳には広がっていた。
気だるげに上半身だけ起こして、ロキと呼ばれた男は自分の名を呼んだ人物に不敵な笑みを向けた。
「呼んだか?トール」
トールと呼ばれた、先ほどからずっと扉の前に立ったままの長身の男は、力が抜けたように肩を落として再度ため息をつく。
「呼びましたよ、何度もね。そりゃあ、うっかり坊ちゃんって呼んだ私にも非はありますよ。でも、さっきからずっと呼んでるんだから、返事くらいしてくれたっていいじゃないですか」
「何回も間違えるお前が悪い。いい加減呼び方くらい慣れろ」
「はいはい、分かりましたよ、殿下。それはそうとご報告なんですが」
トールと呼ばれた男は早足でソファの側まで近寄ると、小声で何事かを告げた。
ロキと呼ばれた男が、ふふんと愉快そうに鼻を鳴らす。
「それは面白くなってきたな」
窓から入ってきた風が、ロキの鮮やかな赤髪を揺らして去っていった。