10 years ago





―朱里7歳―


「…知ってるかい、朱里」

普段ほとんど表情の読めないジライが、口許に満面の笑みを浮かべて朱里の前に現れたのは、ある暖かい昼下がりのことだった。


「何を?」

床に座り込んで冒険小説に夢中になっていた朱里は、突然の来訪者に顔を上げる。
ジライは少しもったいぶるように、手に提げていた大きめの布袋を朱里の前で揺らしてみせた。

「ドレスっていうのはね、普通は女の子の着る服なんだけど、唯一特別な男の子にだけは着ることが許されてるんだよ…」

そう言ってジライが袋から取り出したのは、裾にフリルをふんだんに使った可愛らしい淡いピンク色のエプロンドレスだった。


*****



「いいね…やっぱり素材がいいと服も映えるよ。朱里、今度は胸の前で両手を組んでみて…」

「こ、こう?」

何も知らない幼い朱里は、頭に花のコサージュまで付けて素直にジライの指示に従い、祈りのポーズをとる。

ジライ愛用のカメラ。
先ほどから室内では、そのシャッター音がひっきりなしに鳴っていた。

普段の姿からは想像もできないような俊敏な動きで、ジライはドレス姿の朱里の周りをぐるぐる移動している。

「…最高だよ、朱里」

そう言われて悪い気はしない朱里が恥ずかしそうに顔を赤らめる瞬間も、逃すことなく確実にカメラに収めていく。


それがおよそ一時間も繰り返された頃だろうか。
フィルム切れにより一時撮影中断ということで、ようやく朱里は自由の身になった。

切れのいい動きで財布を掴んで部屋を走り去っていくジライを見送りながら、ふうっと息をつく。

「なんか疲れたなぁ」

さすがに長時間ポーズを取り続ければ、子どもでも心身共に疲労が積もる。
朱里はうーんと腕を上に伸ばしながら、窓辺に歩いていった。

窓の外を何気なくのぞこうとしたのだが、ついガラスに映った自分の姿を凝視してしまう。

「…特別な男にだけ、かぁ」

そう言われれば、見事なドレスをまとった自分の後ろに後光が射してくるようにも見えるから不思議である。

朱里は心もち口許を緩ませたまま、しばらく窓ガラスの前で"特別な男の子"と称された自分を眺めていた。


****



ふと外に出よう、と思ったのはなぜだったか。

ジライがいつまで待っても帰ってこず、小腹も空いてきた、というのが理由だったかもしれない。

朱里はエプロンドレスに花のコサージュという、特別な少年の証を全身で主張しながら颯爽と宿の外へ出た。

足の間がすうすうして落ち着かないが、ジライの言葉がそれさえも誇りのように思わせる。

特別な男の子。
なんていい響きなんだろう。

このときの朱里の頭には、"特別"という言葉だけが光り輝いており、一体何が特別なのかというごく平凡な疑問すら完全に抜け落ちてしまっていた。

「何か食い物買いに行こうかな」

スキップまで刻んでしまうほど浮かれ気分の幼い朱里。

女装した少年が人波の激しい大通りに現れればどういうことになるのか、至福に浸っている無邪気な朱里には知るよしもなかった。


****



「お嬢ちゃん、お使いかい?えらいねぇ」

「いや、俺男だって」

笑顔でパンの袋を手渡す店の主に、朱里は即座に否定の言葉を返した。

「えっ、男?あ…ああごめんよ。そっか、坊ちゃんか…」

「うん、これもらってくな」

懐から金を出すと、朱里はパンを詰め込んだ紙袋を両腕に抱えるようにして、出店を後にした。




「…ったく、さっきからなんなんだよ」

袋から無造作に取ったパンをかじりながら、朱里は一人ごちた。

さっきから何度このやり取りを繰り返しただろうか。
「お嬢ちゃん」と呼ばれ、男だと否定すると、人はみな一瞬驚いた表情を浮かべる。
そしてすぐに引きつった笑いを顔に貼りつかせるのだ。

「俺、特別な男なんだぞ…」

口を尖らせつつ、朱里は腕に抱えた袋の中を覗き込んだ。

一人で食べるには多すぎるパンの数。
ジライへのおすそ分けも含んでいるのだ。

これはドレスを着せてくれた感謝の意を示すための物だった。

「ちょっと小遣いは減っちゃったけど、まぁいいよな」

毎月師匠が与えてくれる定額のお小遣いは、朱里が今のようにおやつを買ったり、本を買ったりするときに使えというものだった。

決して高い金額ではないため、大事に使わなければすぐになくなってしまう。
先月なんて本を一冊買っただけで、後はもう何も買えない状態だった。


そんな大事な小遣いをはたいてまでジライのためにパンを買うほど、朱里は特別な男の着るドレスを与えてもらったことが嬉しかった。


だから、この後に起こった出来事は信じられなかったし、信じたくもなかったのである。


****



「…いや、俺男だから」

またか、と朱里はため息をついた。

宿へ帰る道すがら、子連れの女性が朱里に声をかけてきたのだ。

「お荷物多くて大変でしょう?手伝いましょうか、お嬢ちゃん」

これで一体何度目だろう。

朱里はいい加減「お嬢ちゃん」という言葉にはうんざりしていた。

どこからどう見ても男なのに。
しかも、ドレスが着られる特別な男なのだ。

女性は朱里が男だと名乗ると、やはり驚いた表情をした後困ったような笑いを浮かべた。

「あ、あらそうなの?ごめんなさいね、私てっきり…」

口許に手を当てつつ、子どもの手を引いてその場から退散しようとする。
だが、子どものほうがドレス姿の朱里に目を注いだまま動こうとしなかった。

朱里よりずっと小さいその少年は、ぽかんと朱里の顔を見上げながら言った。

「変だよ。男なのに女の子のお洋服着てるなんて」

「え」

「ねぇお母さん、このお兄ちゃん変だよね?スカートは女の子しかはかないよねえ?」

ぐいぐい自分のスカートの裾を引っ張る息子に、女性は「そんなこと言っちゃ駄目でしょ!」と一喝するが、息子の口は止まらない。

「なんでお兄ちゃん、女の子のカッコウなんてしてるの?」

「え、だって…特別な男ならドレス着れるってジライが…」

朱里はたじたじしながらもそう答えた。
ジライが言ったことに疑問すら感じていないようだ。

「えぇー、そんなの聞いたことないよ。ねぇお母さんは知ってる?」

不思議そうに首をかしげる少年に、女性は「さ、さあ?」と曖昧に返事をするばかり。

少年は朱里のドレスに顔を戻すと、

「じゃあ、ぼくもドレス着れるのかな?」

興味津々という表情を浮かべてドレスに触れようとした。

女性がとっさに息子の手を止める。

「ばかっ、男の子がドレスなんて着れるわけないでしょう!」

本人も無自覚の、思わず口をついて出てしまった言葉だったのだろう。
女性はすぐに、しまったというふうに口を押さえたが、肝心な言葉は朱里の耳にしっかり届いた後だった。


呆然とする朱里に素早く一礼すると、女性は半ば無理やり子どもの手を引いてその場を去っていった。


「やっぱりあのカッコおかしいんだぁ」

風に乗って遠くから子どもの声が聞こえてくる。
朱里にとってはとどめの一撃以外の何物でもなかった。



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