左手がほんのり温かい。
一人のときはあんなに心細かった夜道が、今はこんなに穏やかだ。
すぐ左隣を見上げて、小夜はその理由を知った。
「朱里さんは不思議です」
「ん?」
今も胸のざわめきは収まらない。
手を当てなくても自分の心音が耳に響いてくる。
それでもそれは決して不快なものではなかった。
黙って笑っていると、心底不思議そうな顔で朱里が小夜を見返してきた。
今朝のことなんて覚えていないように、いつもと変わらない顔で。
「朱里さん」
「ん?」
同じ言葉を返してくる朱里の手をぎゅっと握って、小夜は口を開く。
「今朝はごめんなさい。朱里さんに触られるの、怖いとか嫌とか、そういうんじゃないんです」
朱里は「うん」とだけ返してきた。
じっと小夜の言葉の続きを待ってくれている。
小夜は自分でも不思議なこの気持ちをなんとか伝えたくて、言葉を探しつつ口を開いた。
「私、朱里さんに触られると、胸がざわざわして心臓がドキドキしてきて、すごく苦しくなるんです。でも、ほんとは……もっと触ってほしくて、こうして側にいたくて…。わがままでごめんなさい」
朱里の返事はまた「うん」だけだった。
見ると、朱里はうつむくように前方を見つめている。
やっぱり傷つけてしまったのだろうか。
「あの、朱里さん」
小夜が言いかけたとき、朱里が重ねるように口を開いた。
「あのさ、俺も一緒だから。それに、わがままなのは俺のほうかもしれない」
「え?」
「俺だって、変だよ。お前といると」
見上げると、なぜか朱里は小夜から顔を逸らすようにそっぽを向いていた。
「胸がざわざわとか苦しいとか、そんなの…こっちはお前と会ったときからずっとしっぱなしだっての。今だって」
強く握り締められた手のひらから、朱里の熱が伝わってくる。
繋がった手から感じるこの鼓動の速さはどちらのものだろう。
もしかしたら、二人とも同じくらい心音が大きくなっているのかもしれない。
「不思議ですよね」
ぽつりとつぶやいた小夜の言葉に、朱里がわずかに赤い顔を戻す。
「私たちの心臓、どうしちゃったんでしょう」
心底不思議そうな小夜の様子に、朱里がぷっと笑みをこぼした。
「ばあか。どうもしてねえよ」
「でも、それじゃどうしてこんなにドキドキするんですか?」
「そんなの分かりきったことだろ」
首を傾げる小夜を見下ろして、朱里がいたずら好きの子どものように歯を見せて笑う。
「教えてやろうか?」
素直にうなずく小夜の顔をのぞき込むと、朱里は小さな声で「目閉じとけ」と告げ、そのまま小夜の唇に口を軽く押し当てた。
小夜が驚いて目を開くより先に顔を離すと、何事もなかったかのようにまた歩き始める。
「しゅ、朱里さん?」
「ほーら、さっさと歩く。早く帰って飯にしようぜ」
突然のことに動揺する小夜の手を握ったまま、ぐいぐい前進していく朱里。
小夜の心臓は今や痛いくらいに鳴り響いていた。
(ドキドキしすぎて壊れちゃいそうです。でも…)
繋いだ朱里の手からも同じくらいの鼓動が伝わってきたのは、小夜の気のせいだろうか。
「で。なんでこんなことになってるわけ?」
宿の自室で立ち尽くす真顔の朱里。
その視線の先には、ベッドの上で二つの枕を並べる寝間着姿の小夜がいた。
「準備完了です、朱里さん!さあ寝ましょう」
あどけない笑顔で朱里をベッドに誘う小夜。
シーツの上に無防備に投げ出された生足に思わず視線が引き寄せられる。
「いやいやいや、変だろこれ!お前緊張するんだろ、俺のそばにいると!」
なんとか無理やり首をひねって視線を外すが、動揺は隠せない。
「だからこそ克服したいんです!朱里さん、一生のお願いです!一緒に寝てくださいっ」
「どんな克服方法だよ!しかもこんなことに一生のお願い使うな!」
朱里の言葉に、小夜ががっくりと肩を落とす。
「もしかして、私と一緒に寝るの…お嫌ですか?」
そう言って、捨てられた子犬のごとく悲しげに見上げてくる小夜の瞳を拒否できるほど、朱里の意志は強くなかった。