何かあったのかな。
すっかり日の落ちた窓の外を見上げて、小夜は一人息を吐いた。
行先も告げずに朱里が出ていったのは、もうずいぶん前の刻だったと思う。
もしかしたら、朱里を怒らせてしまったのかもしれない。
今朝も、伸びてきた手に思わず身構えてしまったから。
朱里が怖いわけではない。
もちろん嫌いなわけでも絶対にない。
ただ、近くにいると胸がざわついてしまう。息をするのが苦しくなって、自分ではどうしようもなくなる。
それが朱里にも伝わってしまったのだろう、自分に伸びた手はそのまま黙って元に戻された。
そのときの朱里の顔を思い出すと、今でも胸が痛い。
笑ってはいたけれど、いつもとは違う顔。
そして朱里はそのままふらりと出ていってしまったのだ。
荷物を部屋に残したままだから戻っては来るはずだが、それでも小夜の心から不安は消えなかった。
どうしよう、傷つけてしまったんだ。
謝らなくちゃ。
夜の一人歩きは朱里から固く禁じられていたが、今はそんなことも言っていられない。
大きく深呼吸すると、小夜は肩に羽織るものを掴んで部屋を飛び出した。
宿の仄灯りが漏れる通りは人の姿もまばらだった。
まだ春と呼ぶには早すぎる夜気はしんと冷えていて、小夜は肩を抱くようにして周囲を見回した。
どこを探せばいいのだろう。
昼間と違って夜は視界が悪く、方向感覚を失ってしまう。
さらに小夜にはこの町の地図が頭に入っていないため、あてがあっても向かう方角の見当さえつかない。
右を見ても左を見ても、あるのは深い闇ばかり。
だが、ここで突っ立っているわけにもいかない。
小夜は唇を固く引き結ぶと、右に伸びる道へ足を踏み出した。
小夜の小さな背中が夜陰に消えたのと、反対の道から重い足取りの朱里が姿を現したのは、偶然にもほぼ同じ頃だった。
朱里は小夜に気づくこともなく宿屋の扉をくぐり、そして小夜の不在を知ることとなる。
先ほどまでの悩みは今や頭から消えていた。
暗い夜道を一人駆けながら、朱里は内心悪態をつく。
あの阿呆、あれだけ夜は一人で出歩くなって言ったのに。
なんでふらふら出ていくんだよ。
まさか自分を探しに行ったとは思いもしないようである。
もし小夜に何かあったら。
嫌な想像ばかりが頭を巡る。
以前もこんなことがあった。
そのときも今みたいに全速力で町じゅうを駆け回った。
何日も、小夜の姿を探して。
いくら探しても見つけられない恐怖を、朱里は嫌というほど知っている。
もう二度とあんな思いはしたくなかったのに。
「ちっくしょう…!」
「あの、銀色の髪の男の人を見かけませんでしたか?」
夜も更けてきた。
通りを行く人の姿はますます少ない。
なんとか声をかけてみても、みんな首を横に振るばかりで成果もない。
そしてなぜか去り際に珍しそうに小夜の姿を振り返っていく。
道の脇で酒瓶を片手に座り込んでいる男たちも、好奇の目で小夜を見ていた。
何を話しているのだろう、ひそひそと耳に響くささやき声。
居心地の悪さを感じて、小夜は足早に通りを進んだ。
本当にどこへ行ってしまったのだろう。
もしかしたらもう宿屋に戻っているのだろうかとも思ったが、とても今来た道を一人で戻る気にはなれなかった。
やっぱりおとなしく宿で待っているべきだったのかもしれない。
小夜が思わず足を止めてうつむいたときだった。
すぐ脇の細道から黒い影が飛び出してきた。
小夜が振り返るより早く、背後から伸びてきた腕によってその小さな体はすっぽり影に捕えられていた。
怖い。
後ろから痛いくらいに抱きすくめられ、抗うことさえできない。
小夜がなんとか唯一自由な口を開こうとしたところで、後ろの影がやけに息を切らしているのに気付いた。
影は息も絶え絶えに精いっぱいといったふうに言葉を紡ぐ。
「やっと見つけた…こんのばかやろ…」
それは聞き慣れた声だった。
小夜は目を見張り、ゆっくりとした動作で横を見る。
闇に慣れた視界に映ったのは見慣れた顔。
「朱里さん、いました…」
「それはこっちの台詞だよ」
頭をこつんとぶつけてきた朱里は、体を離すと改めて小夜に手を差し出してきた。
「さ、帰ろうか」