「どっ、どうしたんだよ。どこか痛いとこあるなら…」

「違うんです、そうじゃなくてっ…!朱里さん、私に呆れてどこか行っちゃうんじゃないかって…」

途切れ途切れに紡がれる言葉を耳にして、ようやく小夜の涙のわけを知った。
朱里のコートを固く握りしめた小さな拳からも、その思いは伝わってくる。

「置いてかれるとでも思ったのか?」

朱里の問いに、素直にうなずきを返す小夜。

まるで小さな子どもだ。

自分の胸に顔を押し付けしゃっくりを上げる小夜を見下ろして、朱里は思わず笑いをこぼしていた。

「ばあか、んなわけねえだろ」

手のかかる子どもを持った親の気分とは、こんな感覚なのだろうか。

頭でも撫でてやれば泣き止むかもしれない。
小夜の小さな頭に手を伸ばそうとしたときだった。

「本当ですか…?」

小夜が胸元からこちらを見上げてきた。
涙の溜まった大きな瞳が眼下から朱里を見つめてくる。

(うっ…)

思わず伸ばした手が固まってしまった。

至近距離から上目で見つめられれば、親の気分など容易く吹き飛んでしまうものだ。

急激に顔が熱くなる。
無意識のうちに視線は、小夜の小さな唇に奪われていた。

下手をすれば吐息すら感じられそうな距離。
激しい衝動に駆られる朱里の気持ちも知らず、小夜は無防備に体を預けてくる。

「朱里さん…?」

形のいい唇が自分の名を呼ぶのを見て、朱里はさらに動悸が速まるのを感じた。
小夜の体が触れた胸元が溶けてしまいそうなほどに熱い。

なんとか引き剥がそうとするも、手が固まってしまって動いてくれない。

朱里からの返答がないのを不安に思ったのだろう、小夜が先ほどより強く朱里の服を握りしめてきた。

「本当にどこにも行ったりしないですか…?」

胸に押し付けられる例えようのない柔らかな感触に動転しつつ、必死の思いで朱里は首だけ縦に動かした。

それを見ていた小夜の表情がとたんに和らぐ。

「よかった…」

ふにゃりと蕩けてしまいそうな笑みを浮かべた小夜は、朱里の葛藤になど気づく様子もなく無邪気に抱きついてきて、さらに朱里を悩ますのだった。


****



くしゅん、と小さなくしゃみが響いた。

焚火の傍らで眠る小夜の体に自分のコートをかけてやると、朱里はすぐ側に胡坐を掻いた。
頬杖をついてぼんやり炎を眺める。

なんだかひどく疲れていた。
言うまでもなく、精神的な意味でだ。

ぱちぱちと踊る炎から、小夜の寝顔にちらりと視線を移す。

なんと無邪気な寝顔だろうか。
先ほどまでぐずっていたのが嘘のようだ。

頬にかかった髪の毛を除けてやると、くすぐったそうに小夜が身じろいだ。

「やれやれ、とんだお子様だ」



結局、朱里が小夜を胸の中に抱いたまま煩悩と戦っている間に、当の小夜は一人戦線離脱していた。
つまり、泣き疲れて朱里の胸の中でうたた寝をかましていたのである。

結果、朱里だけが煮え切らない気持ちのまま今にいたる。



「あーあ」

悪態をつくように呻いて、ごろんと手足を投げ出し大の字に転がる。

黒い空に目をやると、燃え盛る火の粉が舞い上がって、星の瞬きのように見えた。
星は空に導かれて昇華し、そのまま消えていく。

ふと隣から漏れるかすかな寝息に、首だけ横に向けると、ほんの目先ほどの距離に、華奢な体を丸め、小さな拳を握りしめて眠る小夜の姿があった。
まつ毛に縁どられた目元がわずかに赤く腫れているのは、先ほど泣いたせいだろうか。

手を伸ばし、そっと目元をなぞる。
起きる気配はない。さすがに今日は疲れたのだろう。

そのまま頬に指を這わせ、小さな唇に触れる。

『どこかに行っちゃうんじゃないかって…』

唐突に小夜の言葉が思い出された。

朱里は苦笑する。
そんなわけはないのだ。

唇にあてがった指は、そのまま小夜の細い背中に回された。
眠る小夜の体を抱き寄せると、朱里は自分の腕の中に包み込んで目を閉じる。


小夜の心配はいつだって杞憂なのだ。

朱里には、独りきりに戻る勇気なんてない。
むしろ自分の元に引き留めておくのに必死なくらいだ。

そのことに小夜は気づいていない。
まるで小さな子どものように、無邪気にじゃれついてきたかと思えば、急に置き去りにされるのではないかと怯えもする。

心配する必要など全くないのだと、どうすれば伝わるのだろうか。
いくら言葉を尽くしても、それはしょせん上辺だけのもののような気がするし、第一朱里は思いを言葉にするのが苦手だ。
下手をすれば逆効果になりかねない。

だからと言って、態度で示すのが上手いわけでもない。
アールのように洗練された紳士的な振舞いができるわけでもなし、師匠のように優れた行動力があるわけでもない。

要するに子どもなのだ、自分も。
できることと言えば、黙って小夜の側にいてやるくらいだろう。

「…いい加減大人になれよな…」

小さくつぶやかれた言葉は誰に対するものだったのだろうか。

深い森の中、子どものように体を丸めて寄り添う二人の夜は、静かに過ぎていくのだった。



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